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日野江城 の変更点

*現実の城情報 [#information]

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日野江城は藤原北家の流れとも平氏の流れとも言われる肥前有馬氏が400年以上にわたり居城とした平山城である。
有馬川河口から北に少し入った雲仙から突き出した山塊の東西に広がる先端部を利用した連郭式平山城である。
一方、外来系の技術が入った石垣や戦国期の城址では他に安土城程度でしか見られない直線階段などが確認されており、現在に残る遺構は主に戦国時代末期から江戸時代初頭のものと考えられている。
築城は13世紀前半の建保年間、築城者は肥前有馬氏初代とされる藤原経澄とされているが、時代とともに拡張が進められたものと考えられるため、当時の姿がどうであったかは知るよしもない。
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鎌倉期に土着したとされる肥前有馬氏の事績はほぼ不明であるが、15世紀後半の9代目有馬貴純が周辺の小勢力をのみ込み拡大を始めた頃から歴史の表舞台に姿を見せるようになる。
なお、肥前有馬氏の通字は本来初代経澄にも見られる「澄」であるが、貴純以降「純」に変化している。
「純」は大村氏や西郷氏、長崎氏など肥前南部、長崎半島や島原半島近辺に勢力を持った勢力に共通し互いに養子の出し合いなどが行われていたため、肥前有馬氏は勢力の拡大とともに周辺勢力と血縁関係が生じ、その中で変化が生じたものと考えられる。
いずれにせよ、肥前有馬氏は戦国時代に入る頃には肥前南部一帯を支配下におく有力大名として成長し、少弐氏や大内氏の後ろ盾を得て隆盛を誇った。
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しかし、大内氏の滅亡、次いで少弐氏の滅亡と後ろ盾を失うと、替わって肥前北部を支配した龍造寺氏の前に劣勢に立たされ島原半島まで攻め込まれるまでに窮乏し、臣従を余儀なくされた。
この時期にあたる天正4年(1576年)12代有馬義貞は洗礼を受けキリシタンとなり、次いで14代晴信もキリシタンとなり、肥前有馬氏は代表的なキリシタン大名として、天正遣欧少年使節の派遣にも関わっている。
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龍造寺氏が島津氏と対峙し、その中で蒲地氏一族誅殺という事件が起こると家中に動揺が走り、晴信はこれを見ると島津氏に内通し龍造寺氏からの独立を図った。
これを察知した竜造寺隆信は大軍を率いて島原へ侵攻、晴信と島津氏の援軍がこれを迎え撃つ沖田畷の戦いが勃発する。
戦いは混乱の中で竜造寺隆信が討ち死にしたことで有馬・島津方の大勝となり、有馬氏は窮地を脱した。
その後の豊臣秀吉の九州平定では島津氏をあっさり見捨て秀吉に臣従することで家名を保ったものの、龍造寺氏時代に奪われた所領は戻らず、江戸時代に入り日野江藩となっても状況は変化しなかった。
晴信は幕府に旧領回復を申し出るが、これがきっかけとなり岡本大八事件が発生、晴信は甲斐に配流された後自害(日本の記録では切腹、キリスト教徒の残した記録では断首であったという)した。
ただし、嫡男であった直純は家康の側近として仕え、家康の養女を妻としていたことから連座されることなく、日野江藩をそのまま継承することができた。
しかし、禁教令の発動とともに始まったキリシタン弾圧やそれに連動した異母弟・妹の殺害などで精神的に疲弊した直純は幕府に申し出、慶長19年(1614年)日向国延岡に転封となり肥前有馬氏は400年以上治めた当地を離れた。
日野江藩は一旦天領となった後、元和2年(1616年)に松倉重政が入ったが日野江城は手狭であると考え、新たな城を築くために同年廃城とした(同時に[[志自岐原城]]も廃城になっている)。
そして、新たに築かれた城が[[島原城]]であり、廃城となった日野江城や[[志自岐原城]]などから石材などが運搬され使用されたという。
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城跡は果樹園や田畑化していたが、昭和57年(1982年)に国史跡となり、20世紀末には発掘調査が行われるなどし、上述の直線階段等多くの発見がなされている。
その後、北有馬町(現南島原市)が修復をともに公園整備を図ったが、その際に損壊を及ぼしたとの批判を受け工事が中止され、世界遺産登録リストからも外れたため、今後も目立った整備はなされないものと考えられる。
それでも、草刈など最低限の手入れは行われているため、発掘で見つかった遺構などの見学は比較的容易である。
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|所在地|長崎県南島原市北有馬町|
|現存状態|階段、土塁、空堀、石垣|
|城郭構造|平山城|
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岡本大八事件は江戸時代初頭、慶長14年(1609年)から慶長17年(1612年)にかけて連続的に起こった事件の総称であり、この中で中心的な役割を担った岡本大八の名をとり、こう呼ばれている。
一連の事件は、当時の幕府と大名、さらには外国勢力間での貿易に関する勢力争いや、それに関連する人物間の対立などによって引き起こされたもので、連続性はあるものの、特定の方向性を持ったものではない。
事件は大きく分けて3つの要素に分かれる。
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1.朱印船貿易からのポルトガル排斥
有馬氏の派遣した朱印船団がマカオにおいてポルトガル船員との対立が原因で騒擾事件を起こし、その鎮圧に際し多数の死者を出したことがきっかけとなり、ポルトガルの対日貿易が衰退する原因となった出来事。
事件は有馬晴信による長崎でのポルトガル使節の乗るノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号襲撃(後、自ら爆沈)でピークに達し、最終的にポルトガル語通訳として幕府とも繋がりを持つ神父ジョアン・ロドリゲスが追放されたことで、ポルトガルの対日貿易は壊滅的打撃を受け、後に撤退を余儀なくされた。
大元の出来事自体は、単なる騒擾事件であったのだが、国内外問わずポルトガルの対日貿易拡大が疎まれ始めていたタイミングであったため、国内大名のみならずイエスズ会など海外勢力もポルトガル排斥に動いた結果であった。
事実、有馬晴信によるノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号襲撃は上述した騒擾事件への報復として、幕府から公認を得て行ったものであったほどである。
これによりポルトガル勢力が日本から後退する入れ替わりで幕府中枢に接近することに成功したのが三浦按針であった。
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2.長崎奉行と有馬晴信の対立
上記の事件の際、旧領回復を悲願としていた晴信はこれをチャンスととらえ、事件を管轄する長崎奉行を出し抜いて直接行動に出るなど奉行をないがしろにすることが多々あった。
結果として、事件後長崎奉行長谷川藤広と晴信は激しく対立するようになり、特に晴信は藤広に対する殺意を口に出すほどであったという。
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3.岡本大八の暗躍
岡本大八は本多正純の家臣で元は藤広の家臣であったことから、晴信の報復襲撃の監視役として派遣された人物であった。
大八は晴信の旧領回復の悲願を見抜くと、正純へと働きかけると言葉巧みに接近し、運動資金として多大な金銭を詐取した。
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その後、晴信が事の進展を本多正純に問いただしたことで、岡本大八の詐欺が発覚し大八は捕らえられた。
しかし、大八は晴信が藤広への殺意を隠していなかったことを利用して、晴信が藤広殺害を計画していると訴え、晴信もこれを否定できなかった。
結果として両者成敗となり、大八は江戸に送り返された後火あぶりに、晴信は甲斐配流後に自害となった。
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この事件をきっかけとして幕府は禁教・鎖国の方向へと向かい始める。
江戸幕府は当初から、欧州勢力との貿易とキリスト教拡大の抑止という二律背反に悩んでいたが、岡本大八は取り調べ(拷問だったと考えられている)に対し幕府中枢近くにも多くのキリシタンがいると自白したことから、これ以上のキリスト教拡大を看過できなくなったというのが説である。
また、これには実際に長崎でキリシタンの状況を見ている藤広の意向も強く反映されたと考えられており、先に述べた直純の転封も間接的にはキリシタンの多い島原一帯を長崎の管轄下に置こうという藤広の策略であったとも言われている。
同時にキリスト教国であるスペインなどの貿易からの排斥が進み、かわって貿易利権を得たオランダとイギリスも、オランダとの対立に敗れインドまで勢力を後退させたイギリスが離脱したことで、オランダが対東アジア貿易を独占するとともに鎖国体制が完成することになる。

結局のところ、幕府がキリシタンとは直接関係のない事件をキリシタン弾圧の口実として利用した側面も強く、晴信の自害も嫡男である直純が日野江藩相続を維持するために押し進めているなど、色々闇のある事件である。
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