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日野城 の変更点

*現実の城情報 [#information]

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藤原秀郷を祖とする藤原北家の一族・蒲生氏の居城で中野城とも呼ばれ、蒲生氏郷生誕の地としても知られる。
蒲生氏は音羽城を居城としていたが、蒲生秀紀の代の大永3(1523年)、蒲生氏の分家出身で六角定頼に仕えていた定秀の攻撃を受けて音羽城は破却された。
その後秀紀は蒲生宗家の家督を定秀に譲り、定秀は新たに日野城を築いて居城を移した。蒲生氏は定秀とその子賢秀の代で六角氏の重臣となり、永禄6年(1563年)の観音寺騒動の際には日野城のことと考えられる「日野蒲生館」に六角義治が避難している。
日野城は織田信長によって六角氏が滅亡し、蒲生氏が信長に臣従してからも用いられ、本能寺の変の際には信長の妻子を保護した賢秀・賦秀(後の氏郷)父子が籠城したという。
天正12年(1584年)に賦秀が伊勢の[[松ヶ島城]]に移ってからの日野城の動向は不明だが、慶長9年(1604年)には城内や城下町の建物が取り壊されたとされる。また元和6年(1620年)には市橋長政がこの地に入り、城跡に仁正寺陣屋を構えて幕末まで存続した。

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日野城は日野町東部、日野川沿いの河岸段丘上に築かれ、伊勢越えの東西ルートに位置していた。
城跡は後世の改変が激しいものの、現存する遺構や大正6年(1917年)の「中野城址図」などから、主郭は方形で周囲に高さ約5メートルの土塁が築かれていたことがうかがえる。
主要な虎口は西辺の土塁中央に開口し、『仁正寺由緒記』によると石垣が築かれていたとされるが、現存はしていない。
主郭の外側には幅10~20メートルの横堀が設けられ、主郭の北西にはL字型の堀があり横堀の外側にさらに横堀があったと考えられるが、いずれも現存しているのは一部分のみで全体像は不明となっている。
このように日野城は織豊時代まで拠点城郭として存続していたにも関わらず、中世城館の形態に留まる点が特徴であり、また中世の早い段階から城下町が形成され、さらにそれを囲む総構が存在していたことも特徴として挙げられる。

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|所在地|滋賀県蒲生郡日野町西大路|
|現存状態|堀、土塁など|
|城郭構造|平城|

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