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摂津滝山城 の変更点

*現実の城情報 [#information]

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摂津滝山城(せっつたきやまじょう)は兵庫県神戸市中央区(摂津国八部郡)にあった山城。瀧山城とも書かれる。
六甲山地南縁にある標高323mの城山に築かれた山城で、鎌倉末期~戦国時代にかけて長きの間軍事上の拠点となった。
史料上の初出は『正慶乱離志((1333年における戦乱の記録をまとめた総称))』において、赤松円心が正慶2年(1333年)に六波羅の軍勢と対峙としたという「生田の布引の城」とされ、これ以前には築城されていたと考えられる。
赤松円心が同年に摩耶山に築いた摩耶山城とあわせて赤松領東方の拠点となり、南北朝期にも北朝方であった赤松氏が南朝方と攻防を繰り広げたことが記録として残っている。

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室町期には赤松家臣が城主であったとされるが、史料に名前がほとんど現れないため一旦廃城となったとも考えられている。
この城が再び表舞台に出てくるのは、三好長慶が京都を抑えた1550年前後になる。
長慶は摂津国西部をおさえる拠点の城とすべく滝山城の改修を家臣松永久秀に命じ、久秀によって現在に残る城の形が完成し、そのまま久秀が城主となった。
永禄7年(1564年)三好長慶が死去し、その翌年の永禄の変(将軍足利義輝が三好三人衆らによって殺害された事件)により三好氏を抑えるものがいなくなると、三人衆と久秀の間で主導権争いが始まることとなる。
久秀の居城であった滝山城は三人衆の攻撃対象となり、永禄9年(1566年)彼らの命を受けた安宅信康によって攻撃を受けることとなる。
滝山城は堅固な守りを持つ山城で安宅信康も攻めあぐねたが、播磨の三人衆方国人が援軍として駆けつけ、水の手を切り困窮したところを総攻撃して落城させた。
かわって三人衆方の篠原長房が城主となるも、織田信長の進出によって三人衆の勢力が衰えると長房は滝山城を離れた。
天正期には[[花隈城]]の支城であったが、荒木村重謀反における[[花隈城]]の戦いの時には城山は織田方の拠点として利用されたことがわかっている。
これ以降史料に現れないことから、花隈城落城とともに廃城になったと考えられる。

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六甲山地一帯は大きな開発の手が入っていないこともあり、現在でも往時の縄張りを確認することが可能であり、
山頂の主郭一帯やその周囲に曲輪群や、それを防御線として構築する土塁、堀切、石積等が残っている。
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|所在地|兵庫県神戸市中央区(城山山頂)|
|現存状態|土塁、堀切、石積、土橋等|
|城郭構造|山城|
*コメント [#comment]
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