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後瀬山城 の変更点

*現実の城情報 [#information]

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甲斐武田氏の庶流である安芸武田氏からさらに分かれ、若狭守護を務めた若狭武田氏の居城で、若狭でも最大級の大城郭。
若狭武田氏は西津に守護所を置いていたが、大永2年(1522年)に6代・元光が後瀬山城を築き、以後3代に渡る居城となる。
小浜湊の背後にそびえる、万葉集でも詠まれた名山である後瀬山に築かれ、山頂から山腹にかけて巨大な堀切や畝状竪堀群で守られ、山麓には守護館となる居館が築かれ水堀が巡らされた。
日本海の要港として畿内との中継交易で栄えた小浜湊を押さえた若狭武田氏だったが勢力基盤は脆弱で、度重なる戦乱や家臣団の抗争で衰え、永禄11年(1568年)に9代・元明は越前の朝倉義景の侵攻を受け、[[一乗谷城]]に連行された。

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以後若狭は朝倉氏の支配下に置かれるが、天正元年(1573年)に織田信長が朝倉氏を滅ぼし、若狭は丹羽長秀に与えられた。
後瀬山城に入った長秀は石垣を築くなど近世城郭として大改修を行ったが、その子長重は豊臣秀吉によって若狭の所領を没収され、後瀬山城には浅野長吉や木下勝俊が入れられた。
関ヶ原の戦い後に若狭は京極高次に与えられ、高次は後瀬山城に入ったが、のちに小浜城を築き後瀬山城は廃城となった。
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後瀬山城は標高168.5メートルの後瀬山山頂から北東・北西に続く尾根沿いに曲輪が連なり、山麓の施設は山上から続く施設の延長線上にあり、双方の施設の一致が見られる。
南方向に遮断施設が集中しているのも特徴的で、本丸南側の堀切と竪堀、本丸南側に位置する曲輪の二重堀切、北西方向に伸びる尾根上の曲輪群の土塁・堀切・竪堀、その先の曲輪の土塁と畝状空堀群はいずれも南側に設けられている。
また竪堀の使い分けも特徴の一つで、北西部の曲輪では南から西にかけての斜面は20本以上の小規模な竪堀からなる畝状空堀群が斜面をつぶし、曲輪の両端に設けられた堀切につながる長さ約100メートルにもなる竪堀は城域の西端を区画しており、このような顕著な竪堀の機能差による使い分けは珍しい。
そして主郭部に石垣が用いられているのは織豊系城郭の特徴を示しており、軍事的緊張を背景に従来の山城を一時的に使用した、あるいは広大な城域を縮小して利用した事例といえる。
このような城郭は多くの場合、その後に平野部に新たに城が取り立てられるが、後瀬山城は山麓が中世以来町場として機能し、また小浜湊を有していたことから織豊期においても存続していた。

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|所在地|福井県小浜市|
|現存状態|堀、土塁、石垣など|
|城郭構造|山城|

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