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川之江城 の変更点

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川之江城(かわのえじょう)は伊予と讃岐の国境に近く、伊予灘に沿って立つ鷲尾山に築かれた山城(平山城とされることも多い)で、鷲尾山には元は仏閣があったとされることから仏殿城とも呼ばれている。
現在の川之江一帯は讃岐・伊予・阿波・土佐各国を結ぶ街道が集まる交通の要所であり、極めて高い戦略的価値を持っていた。
南北朝期、伊予領主河野氏は南朝に属し、北朝方である讃岐の細川氏と対立した。
そのため、延元2年(1337年)讃岐国境を固めるために河野家臣土肥義昌が背後に伊予灘があり防御に適した鷲尾山に砦を築いたのが川之江城の最初とされる。
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興国3年(1342年)、南朝方の混乱をついて讃岐の細川頼春が7千の兵をもって川之江城を攻撃、落城させるも、その後長らくの間川之江城の所有は河野氏と細川氏の間を行き来したものと考えられている。
戦国期に入り、細川氏と河野氏の間で和睦が成立した際に最終的に河野氏の持ち城と確定したとみられ、河野家臣妻鳥友春が城主として入り、元亀3年(1572年)の三好長治の攻撃を跳ね返している。
しかし、土佐の長宗我部氏の勢力が伸長し伊予にも及ぶと妻鳥友春は金子城主金子元宅などとともに長宗我部氏に通じた。
これを知った河野氏は家臣河上安勝を派遣し川之江城を落とし、河上安勝が城主となった。しかし、長宗我部氏の本格的な伊予侵攻をうけ、天正10年(1582年)再度落城、安勝は討ち死(謀殺とも)している。
これによって再度妻鳥氏が城主になったが、天正13年(1585年)羽柴秀吉による四国攻めが始まり、金子元宅が討ち死にするなど中予が制圧されると川之江城は秀吉方に包囲され、長宗我部元親の降伏によって開城となった。
その後は伊予を与えられた小早川隆景の所領となり、隆景が筑前に移ると福島正則が、政則が清洲に移ると池田秀氏へと次々に領主が替わり、最終的に江戸時代に入り加藤嘉明の頃に廃城となったと見られている。
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城跡はかつては本丸に石垣が残る程度であったが、昭和59年(1984年)から川之江市市制試行30周年記念事業として大規模な整備が行われ、模擬天守や櫓門、隅櫓などが作られた。
しかし、これらの建造物が実際の川之江城の実態に即したものであるかについてはかなり疑わしいと言わざるをえないようである。
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|所在地|愛媛県四国中央市川之江町|
|現存状態|特になし|
|城郭構造|山城(平山城)|
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