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山海関 の変更点

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中国・北京から瀋陽など中国東北部を結ぶ街道が通る、遼西回廊と呼ばれる地域の城郭都市。明代の[[万里の長城]]の本線最東端とされる。
この地域は燕山と渤海に挟まれた隘路で、古来から軍事上の要衝として重視された。漢王朝の頃には既に臨楡関と呼ばれる関が置かれていた。
隋唐時代にも拡張・強化が続けられ、現在も残る城壁の一部はその当時のものである。その他の多くの部分は明代の長城と同時期に修築された。
元・明以降は山海関を境にして華北と東北が分けられ、[[函谷関]]に倣って関より東を関東と呼ぶようになった。現在も河北省と遼寧省の境である。
古くから「天下第一関」と称されたといい、現在もそう書かれた大額が掲げられている。ただしこれは知名度や規模が一番、という意味ではなく、東から来た時の天下(中原・華北平原)の最初の関、という意味である。

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明朝初期の将軍・徐達がこの地の関を再興して新城壁を築いたのが現在残る山海関の主要部である。のち長城建設に従って東の城壁を長城に接続した。
明代末の地図では長城沿いの南北に方形の支城が記載され、長城は更に南の老龍頭城(海城)で渤海に接している。
軍事上の要衝として常に多くの兵が配置されており、天啓帝二年(1622年)の記録では兵約8万人と馬1万2千頭以上が配置されたとある。
この頃東北では女真族が後金国(のちの清朝)を建て南下を始めた。やがて関東地方は後金の手に落ちたが、山海関はその後も攻勢を跳ね返し続けた。
崇禎帝17年(1644年)、順王を名乗る李自成の反乱軍が北京に迫ると山海関の守将・呉三桂は北京防衛に出撃するが、途中で北京陥落を聞き引き返す。
崇禎帝17年(1644年)、順王を名乗る李自成の反乱軍が[[北京>北京城]]に迫ると山海関の守将・呉三桂は北京防衛に出撃するが、途中で北京陥落を聞き引き返す。
順軍と清軍の双方から降伏勧告を受けた呉三桂は李自成の討伐を条件に清軍のドルゴンに下り、山海関は不敗不落のまま開城した。
山海関の重要性はその後も変わらず、清代を通して『両京鎖鑰(りょうけいのさやく)』と呼ばれた。これは新都北京と旧都盛京(現在の瀋陽)という二つの都を結ぶ重要地点という意味である。
1933年1月には日本軍(関東軍)が山海関を占領(山海関事件)。ここを拠点に熱河作戦を展開し、日中戦争に繋がっていく。


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城壁は北が短く南が長い台形で、四辺の合計は約4kmに達する。東西南北に甕城を備えた城門が設けられ、特に東側の鎮東門が最も厚く防御される。
高さは14m、厚さは7mで城壁の上に複数の入母屋造((中国語では重櫓歇山頂造りと呼ぶ))の楼を持つ。さらに城壁の外側には深さ8m幅17mの水濠を廻らせていた。
城壁は土を突き固めた班築造りの表面に磚石(レンガ)葺き。これは明代の城壁としてはごく標準的な作りである。

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|所在地|中国 河北省 秦皇島市 山海関区|
|現存状態|城壁、城門、堀|
|城郭構造|城塞都市|

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