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小野城 の変更点

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奥州探題として陸奥に勢力を誇った大崎氏の居城で、内館城、大崎城、小野木古館、小野御所などの別名でも呼ばれる。大崎氏が衰退した16世紀後半に居城とした[[名生城]]や中新田城以前、大崎氏最盛期の本拠にあたる。
文和3年・正平9年(1354年)に奥州管領として斯波家兼が陸奥に下向し、その長男で大崎氏を名乗った直持は奥州管領を引き継ぎ、次男の兼頼は山形に入って最上氏を名乗り、羽州探題を世襲するようになった。
直持の子の詮持は奥州探題に任命され、以後大崎氏は奥州探題を世襲した。大崎氏が現在の大崎地方である陸奥河内に本拠を置いたのも詮持の時代で、やがて小野に本拠を移したとされる。大崎氏第五代の満持の法名は『奥州余目記録』によると「続灯寺」とあり、小野城と沢を挟んで南側に位置した竜門山続灯寺跡が満持の菩提寺とされる。
また小野城の北側には龍谷寺跡と伝わる遺構があり、大崎氏第七代の教兼の法名が「龍谷寺」であることから、教兼の菩提寺だったと考えられる。
さらに『奥州余目記録』には教兼は「洲賀御事」と記され、第四代の満詮を「大洲賀さま向上院殿」と記しており、小野城内には須賀の地名があることから、両名にとって縁の深い地であったとされる。

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第三代の詮持は鎌倉府との抗争のなかで自害し、跡を継いだ第四代の満詮は室町幕府や伊達氏と結んで鎌倉府と戦い、第五代の満持は河内五郡をほぼ領国化し、自他ともに大崎氏を称されるようになった。
第六代の持詮は奥州探題として主に陸奥の北部・中部で職権を行使し、特に留守氏、和賀氏、黒川氏などの有力国人の内紛に介入した。第七代の教兼は九男四女を河内郡の各地に配置し、領国支配を強化した。また現存する発給文書が大崎氏歴代では教兼のものが最も多く、奥州探題としての職権が陸奥全域に及んだ。しかし領国内では内紛も相次ぐようになり、大崎氏が衰退し始める時代でもあった。
小野城における大崎氏の事跡はこの教兼以降は途絶え、第九代の義兼の時代には加美郡に本拠に移ったとされる。
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小野城は北方の高清水から続く丘陵地帯の南端部に立地し、南には大崎平野が広がる。丘陵の麓には現在の大崎広域農道にあたる道が通り、城域はこの道に沿って東西約700メートル、北へ最大約400メートルに渡って広がる。城の東・南・北の三方は当時千枝湖あるいは大崎沼と呼ばれる沼地で、現在も「舟着」の地名が残り、舟着場があったとされる。
主郭部は大きく四つの部分に分かれ、丘陵の地形を活用した曲輪群によって囲い込まれている。主郭部の周囲には一段低くなったところに曲輪が置かれ、堀切によって遮断されている。
小野城の周辺には多数の城館、寺院、神社があり、大崎氏当主の菩提寺とされる竜門山続灯寺跡や龍谷寺跡の他にも、古くからの歴史があった小松寺跡などがある。城館は大崎氏の一族である高泉氏の居館だった普月館をはじめ、有力者の居館があったと考えられる。
このように小野城には第七代の教兼までの歴代当主に関わる寺院跡や関連地名が残り、城を取り囲む遺構群の存在、そして小野城が大崎氏の領国内で屈指の規模を誇ることから、大崎氏全盛期の拠点であったとされる。

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|所在地|宮城県大崎市古川小野西館|
|現存状態|土塁、堀など|
|城郭構造|平山城|

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