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大友氏館 の変更点

*現実の城情報 [#information]

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大友氏館は大友氏が豊後国に守護として土着して以降拠点とした府内(現在の大分市)にあった守護館。
建築年代は定かではないが、14世紀から16世紀にかけて大友氏の居館および政治的な中心として用いられたと考えられる。
最低限の防御設備のみを備えた居館であり戦闘力は低く、戦時の際には詰めの城である[[高崎山城]]などに籠もって戦った。
こういった構造は守護大名にはよく見られ、[[躑躅ヶ崎館]]と[[要害山城]]、[[大内氏館]]と[[高嶺城]]、朝倉氏館と[[一乗谷城]]などが挙げられる。
館はおよそ200m四方のいわゆる「[[花の御所]]」を模した様式とされ、その点からも大内氏館や躑躅ヶ崎館との共通点が見える。
館はおよそ200m四方のいわゆる「[[花の御所>室町第]]」を模した様式とされ、その点からも大内氏館や躑躅ヶ崎館との共通点が見える。
大友氏館から南の上野丘陵に位置する[[上原館>西山城]](うえのはらやかた)が長らく大友氏の居館だったと考えられてきた。しかし1990年代後半からの発掘調査により大友氏館の存在が確認されたため、その役割分担などについての研究が待たれることになった。

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大友氏館跡地からは中国や東南アジアとの交易で集まった陶磁器やキリシタンのロザリオやメダルが多数発掘されている。
また南東側には大友氏菩提寺の万寿寺の跡が、北西側には大友義鎮(宗麟)の時代のイエズス会府内教会の跡地が確認される。
大友氏は大友宗麟の時代に最盛期を迎えるが宗麟は拠点を[[臼杵城]]に移した。しかし府内の大友氏館も平行して使われていた。
天正14年の豊薩合戦で府内は島津勢が乱入して焼き討ちを行い、大友氏館も焼き払われた。出土した陶磁器からは焼かれた痕が見つかっている。
その後、大友義統が朝鮮出兵で味方を救援せず敵前逃亡した失態で改易され、豊臣秀吉の馬廻衆早川長政(長敏)が代官として府内に入る。
早川長政は大友氏館を修繕して移り住んだといわれる(豊薩合戦後に再建されていた?)が、後に[[杵築城]]に改易となる。
府内は長政の同僚でもあった福原直高に与えられ、直高は[[府内城]]を新造して大友氏館は廃された。このとき上原館・高崎山城も廃城となった。
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1990年代後半、付近を通るJR九州日豊本線・豊肥本線の連続立体交差化事業が計画される。
先立って行われた1996年以降の調査で大規模な建物の跡が発見され、さらに大規模な発掘調査が行われて2001年に国の史跡に指定された。
大分市は今後大友氏館の跡地を歴史公園として整備していく考えであり、その中には館の主殿および庭園の復元再建も含まれる。

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|所在地|大分県大分市顕徳町|
|現存状態|発掘調査・史跡整備中 今後復元予定|
|城郭構造|守護館|

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***二階崩れの変
天文19年(1550年)2月、20代当主・大友義鑑の家臣によって義鑑の三男塩市丸とその母が殺され、義鑑自身も重傷を負って数日後に没した事件。
義鑑が嫡男義鎮を廃して塩市丸を嫡男にしようとして義鎮派の家臣の粛清を計画したが、それが漏れて逆襲を受けたものとされる。
この事件の結果義鎮が家督を継いで当主となった。いわば戦国大名大友宗麟を生む契機となった事件である。
事件に義鎮がどの程度関わっていたかについては、まったく無関係で家臣の暴走だったとする説から義鎮の指示で起きた説まで諸説ある。
居館の二階で就寝中の義鑑を襲撃したことからこの名で呼ばれているが、この居館が大友氏館と上原館のいずれかは定かではない。

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