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増山城 の変更点

*現実の城情報 [#information]

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越中国守護代神保氏の拠点。[[松倉城]]・越中守山城とともに[[越中三大山城>日本100名城#t6db45dc]]に数えられ、越中国では最大級の規模を誇る。
越中国守護代神保氏の拠点。[[松倉城]]・[[越中守山城]]とともに[[越中三大山城>日本100名城#t6db45dc]]に数えられ、越中国では最大級の規模を誇る。
貞治2年(1363年)に和田城として築かれたとされ、戦国時代には神保氏が入り本城である放生津城の支城として整備した。
神保氏が[[富山城]]を本拠とした後もその詰城として機能し、神保長職が上杉謙信に敗れた後は長職の居城となった。
その後再び謙信に攻略され、天正9年(1581年)には織田信長勢によって落城し、佐々成政の支配下に置かれる。
天正13年(1585年)の羽柴秀吉による越中征伐後、越中国は前田利家が領し、増山城には城代として中川光重らが入った。
以後前田氏が増山城を支配したが、元和元年(1615)に一国一城令によって廃城となったとされる。

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増山城は上杉謙信が要害堅固であると評したことで知られ、尾根を連続して遮断する大堀切や、独立性の高い曲輪を守る巨大な切岸や横堀、西側斜面に見られる連続竪堀群などが良好な状態で残り、中世山城の特徴をよく残している。
また周辺には亀山城や孫次山砦、赤坂山屋敷などが築かれ、増山城を中心に一大城郭群が形成された。
山麓を流れ天然の堀となっていた和田川の西岸には、佐々氏・前田氏の時代に城下町が造られた。この城下町には[[一乗谷城]]における城戸にあたる土塁が約80メートルにわたって残っており、富山県内でも珍しい遺構となっている。
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増山城はその規模の大きさや防御に優れた縄張、越中国における争乱の舞台となった歴史的重要性を評価され、平成21年(2009年)に国の史跡に指定された。
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|所在地|富山県砺波市増山|
|現存状態|空堀、土塁、石垣など|
|城郭構造|連郭式山城|
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