Top > 城郭都市ヴァレッタ


*現実の城情報 [#information]

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マルタ騎士団(聖ヨハネ騎士団)が本拠地を置き、マルタ大包囲戦(グレート・シージ)の舞台となった城郭都市。
1522年、オスマン帝国により[[ロードス]]を落とされた聖ヨハネ騎士団(ロードス騎士団)は、シチリア島に撤退した後ジェノヴァやニースなど各地を放浪し、1530年にスペイン王カルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)によって、シチリア王が治めるマルタ島を与えられた。
ようやく本拠地を定めることができた聖ヨハネ騎士団(マルタ騎士団)だったが、東ローマ帝国の城塞を増改築できたロードスと異なり、マルタ島ではほぼ一から要塞化を進める必要があった。
この要塞化を指揮したのがロードス攻防戦でも聖ヨハネ騎士団を率いた騎士団長ヴィリエ・ド・リラダンで、マルタ島の主要な湾であるグランド・ハーバーを中心に要塞の建設を始めた。
リラダンは4年後に死去するが、後を継いだ騎士団長らはリラダンの事業を引き継いで湾の要塞化を進め、湾の入口、現在のヴァレッタがあるシベラス半島の先端に聖エルモ砦、湾を挟んだ対岸のセングレア半島に聖ミケーレ砦を築き、ビルグ半島に聖アンジェロ砦を改修し、1557年までには湾の大部分が要塞化された。

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この頃に騎士団長となったのがジャン・ド・ヴァレットで、1560年のジェルバ島の戦いでキリスト教連合艦隊が敗れたことでオスマン帝国の脅威が迫るなか、湾の要塞化を完了し、1565年にオスマン帝国軍を迎え撃つこととなった。
オスマン帝国は5万の大軍でマルタ島を攻撃し、対するマルタ騎士団側はロードスの時と同じ6000人ほどだったが、オスマン帝国はロードス攻撃の際の兵力の半分以下であり、またマルタはコンスタンティノープルからの距離がロードスの倍ということもあって補給がままならず、さらにロードスとは違ってマルタ島では攻撃目標が多数あったことで兵力を分散せざるを得なかったなど、ロードス攻防戦よりも攻撃側に不利な状況だった。
オスマン帝国は5万の大軍でマルタ島を攻撃し、対するマルタ騎士団側はロードスの時と同じ6000人ほどだったが、オスマン帝国はロードス攻撃の際の兵力の半分以下であり、またマルタは[[コンスタンティノープル]]からの距離がロードスの倍ということもあって補給がままならず、さらにロードスとは違ってマルタ島では攻撃目標が多数あったことで兵力を分散せざるを得なかったなど、ロードス攻防戦よりも攻撃側に不利な状況だった。
マルタ騎士団は聖エルモ砦を落とされたものの聖ミケーレ砦と聖アンジェロ砦で頑強に抵抗し、4ヶ月にわたる攻防戦の末、シチリア王がマルタ騎士団に援軍を派遣したこともあってオスマン帝国軍は撤退し、マルタ騎士団は防衛に成功することとなった。
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オスマン帝国軍を撃退したものの各要塞の損傷は激しく、戦後ヴァレットはすぐに要塞を修復・補強し、またオスマン帝国に対する勝利を記念して勝利の聖母教会を建てた。
ヴァレットはこの教会を都市建設の礎石とし、イタリア人建築家のフランチェスコ・ラパレッリとジェローラモ・カッサールの設計によってシベラス半島に新たな都市の建設を始めた。
1568年にヴァレットは死去するが、その事業は引き継がれて1571年に都市が完成し、ヴァレットの名にちなんでヴァレッタと命名され、マルタ島の首都となった。
その後もヴァレッタでは様々な建造物が建てられ、1574年には騎士団長の宮殿が、1578年には聖ヨハネ大聖堂と聖ヨハネ准司教座聖堂が建てられた。
こうして16世紀に街並みが整備されたヴァレッタは「最も高貴な都市」「紳士が紳士のために建てた宮殿都市」などと称され、1980年には「バレッタの市街」として世界遺産に登録され、2010年には日本城郭協会によって「城郭都市ヴァレッタ」として[[ヨーロッパ100名城>日本100名城#nacac76a]]に選定された。

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|所在地|マルタ、ヴァレッタ|
|現存状態|現存|
|城郭構造|城郭都市|

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