Top > 城郭都市エヴォラ


*現実の城情報 [#information]

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ポルトガル南東部、国境とリスボンとの間にあるエヴォラ県の県都。その旧市街が城郭都市として残る。世界遺産の街。
ポルトガル屈指の歴史を持つ古都で、紀元前に居住していたケルト人の一派・ルシタニア人の首邑として建設された町がその始まり。
城壁に囲まれた旧市街にはローマ時代の神殿から中世近代に至るさまざまな様式の建物が立ち並び、長い繁栄の時代を現在に残す。
直線状ではなく複雑に折れながら街を囲む城壁は、ローマ時代(あるいはそれ以前)から補修・改修を繰り返して使われた。
そのためローマ時代の形をそのままに残す場所は少ないが、一部でわずかに現存している。
1584年には天正遣欧使節がエヴォラを訪れた。エヴォラ大聖堂に現存するパイプオルガンを使節の一員、伊東マンショと千々石ミゲルが演奏したという。

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アレンテージョ地方の中心地として紀元前から栄え、ポルトガル王家の離宮が建設されたこともある。周囲には新石器時代の遺跡も存在する。
街の名前はケルト語の「イチイの木が生えている場所」という意味から来ている((ちなみにこの語源はイングランドの城郭都市・ヨークのものと同じ))。肥沃な農産と周辺の交易の中心として栄えた。
紀元前57年ローマによって制圧され、ローマ式の城壁が築かれる。ローマ時代以降においてもやはり繁栄は変わらなかった。
ローマの衰亡後はヴィシゴート王国の、更に8世紀には北上してきたムーア人(ベルベル人)の勢力下に入る。

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1165年、レコンキスタの進展によってキリスト教勢力の支配下に置かれ、翌年初代ポルトガル王アフォンソ1世の直轄領となる。
ポルトガル王国の主要都市のひとつとして重要視された。国王以下の宮廷がエヴォラに滞在することも多く、宮殿も造営された。
13世紀末からは現在も残るエヴォラ大聖堂の建設が始まり、また15世紀のアヴィス王朝期には王の庇護の下芸術の中心地ともなった。
16世紀にはイエズス会によって大学も開かれた。天正遣欧使節が訪れ大司教に歓待されたのはこのころのことである。
しかし18世紀にポンバル侯爵がイエズス会を追放し大学を閉鎖させたことで、エヴォラは次第に衰退する。

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ナポレオンのイベリア半島侵攻に伴って起きた半島戦争の最初期、1808年7月末にエヴォラの戦いが起きる。
侵攻するフランス軍8千人とそれを阻止しようとした街の守備隊と民兵の部隊が激突したが、守備隊は民兵や非戦闘員を含めて8千に達するという死傷者を出して敗れた。
更に下って1834年、ポルトガル内戦に敗北したミゲル1世が最終的に武装解除されたのがここエヴォラであった。
1986年、『エヴォラ歴史地区』としてユネスコ世界遺産に登録され現在に至る。

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|所在地|ポルトガル、アレンテージョ、エヴォラ県、エヴォラ|
|現存状態|現存|
|城郭構造|城郭都市|

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