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城塞都市リガ の変更点

*現実の城情報 [#information]

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バルト三国の一つラトビアの首都で、「バルト海の真珠」と称される美しい都市。
リガの起源は2世紀にまで遡り、ダウガヴァ河口に位置し良港を有していたこともあり、交易で栄えていた。
本格的な都市の建設は1200年、ローマ教皇インノケンティウス3世に認可されてリヴォニアへの十字軍を組織した、ブレーメン大司教の甥ブクスヘーフデンのアルベルトによってであった。
アルベルトはいったんリヴォニアの司教座が置かれていたユクスキュルに入り、より安全なリガに移ることとなった。アルベルトは現地のリーヴ人を使役して聖堂や聖職者の家、兵舎、貯水場などを建設し、都市全体を城壁と堀で取り囲んで堅固な要塞とした。
1201年にはリヴォニアの司教座がユクスキュルからリガに移され、翌年にはアルベルトによってリヴォニア刀剣騎士修道会が設立、1253年にはリガに大司教座が置かれてバルト地方の教会の中心地となり、1282年にハンザ同盟に加盟したリガはその主要都市として繁栄した。

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リガを支配していたリヴォニア刀剣騎士修道会だったが、その被征服民に対する支配は搾取とも呼べるものであり、度々反乱が起こった。
憎悪の対象となったリヴォニア刀剣騎士修道会1236年にリトアニアとの戦いに敗れて壊滅状態となり、翌年に残存者がドイツ騎士団に合流してリヴォニア刀剣騎士修道会は消滅し、ドイツ騎士団傘下のリヴォニア騎士団としてリガを治めることとなった。
リヴォニア騎士団のもとでもリガでは市民との対立が続き、1298年にはドイツ騎士団と争っていたリトアニア大公ヴィテヌスがリガ市民の要請によってリガに入城している。
14世紀初めにはリガ市民によってリヴォニア騎士団の城が破壊されるなど激しい戦いは続き、1329年にはリトアニア大公ゲディミナスがリガに入城したが、その後ドイツ騎士団によってリガは奪還され、ようやく抗争は終結した。
この時にリガ市民は破壊したリヴォニア騎士団の城の代わりとして現在のリガ城を建設させられ、以後リヴォニア騎士団はリガ城を居城とした。しかしリヴォニア騎士団とリガ市民の対立は続き、1484年にはリガ城も破壊され一時はツェースィスに拠点を移したものの、その後リガはリヴォニア騎士団に奪還され、リガ城は1515年に再建された。
リヴォニアでは1558年にロシア・ツァーリ国の侵攻によってリヴォニア戦争が勃発し、その最中の1561年にリヴォニア騎士団は解散・世俗化してその領土の大半がリトアニア大公国領となり、リガも1581年にポーランド・リトアニア共和国の支配下に入った。
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1621年、リガはスウェーデン王グスタフ2世アドルフの侵攻を受け、以後スウェーデン王国の支配を受けることとなった。
このスウェーデン時代の1698年にはスウェーデン門が構築され、現在のリガにおいて唯一現存する城門となっている。
スウェーデン門をはじめ、リガは18世紀まで多くの城塔と城門を備える城壁で守られた城塞都市だったが、ロシア帝国時代の19世紀になると急速に産業が発展し、中世的な旧市街地の周囲に新古典主義建築やアール・ヌーヴォー様式の建造物が立ち並ぶようになった。
こうしてリガは中世のハンザ同盟時代のドイツ的な雰囲気を残す中心部と、近世以降の建築様式が見られる周辺部という異なった都市景観を持つ街となり、多様な建築様式が混在し段階的な都市開発を示すものとして、1997年に「リガ歴史地区」として世界遺産に登録された。
2010年には日本城郭協会によって「城郭都市リガ」として[[ヨーロッパ100名城>日本100名城#nacac76a]]に選定された。

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|所在地|ラトビア、リガ|
|現存状態|現存|
|城郭構造|城塞都市|

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