Top > 城塞都市テッサロニキ


*現実の城情報 [#information]

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東ローマ帝国(ビザンツ帝国)時代、帝都[[コンスタンティノープル]]に次ぐ文化の中心地として繁栄した、ギリシア第二の都市。
アレクサンドロス大王の死後、大王の異母妹テッサロニカを妻としたカッサンドロスによって紀元前316年頃、港町だったテルマを中心に付近の町村を合併した新港湾都市として建設され、妻の名をとって「テッサロニキ」と名付けられた。
カッサンドロス以降のマケドニア王国時代にも城壁は巡らされていたとされるが、テッサロニキが本格的に発展するようになったのはローマ帝国時代であり、マケドニア地方におけるキリスト教布教の拠点として使徒パウロもここで活動している。
146年にテッサロニキ一帯がマケドニア属州に含まれるとテッサロニキは属州の首都となり、293年にテトラルキア(四分統治)によってローマ帝国が分割されると、テッサロニキはガレリウスが支配する東方副帝領の中心都市となった。
統一ローマ帝国最後の皇帝テオドシウス時代には、港湾都市であるテッサロニキの海岸部から市の背後に回り、再び海岸部に戻るように全長約8キロメートルに及ぶ大規模な城壁が築かれた。テッサロニキに一部現存する城壁は、このテオドシウス時代のものが基盤となっている。

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東ローマ帝国時代にもコンスタンティノープルに匹敵する重要都市としてテッサロニキの繁栄は続き、城壁も改修が繰り返された。
しかし904年にサラセン人によって一時的に占領された際に22,000人の市民が奴隷として売られたとされ、1185年にはノルマン人によって占領された。
1202~1204年の第4回十字軍では東ローマ帝国の帝都コンスタンティノープルが攻略されてラテン帝国が成立し、テッサロニキもまた十字軍の指導者モンフェラート候ボニファチオに占領されテッサロニキ王国が建てられた。
1224年、東ローマ帝国の亡命政権の一つであるエピロス専制侯国のテオドロスがテッサロニキを攻略して皇帝を名乗り東ローマ帝国の後継国家となったが、第二次ブルガリア帝国に敗れて衰退し、コンスタンティノープルが同じく亡命政権だったニケーア帝国によって奪回されたこともあり、エピロス専制侯国の地位は低下していった。
その後テッサロニキは1387年に一時的にオスマン帝国に占領されたが東ローマ帝国の支配下に戻ったものの、長年にわたる戦乱で都市は衰退し、1423年にヴェネツィア共和国に割譲された。
ヴェネツィア共和国の支配も長くは続かず、1430年にオスマン帝国のムラト2世によって攻略され、以後テッサロニキはオスマン帝国の支配下に入った。
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オスマン帝国時代にテッサロニキは大規模な改修を受け、現在残る城壁の姿もこの時代のものと考えられる。城壁は場所によって高さは異なるが7.5~15メートルほどの高さとなり、要所に壁塔や城門が設けられた。
城壁の東側、海岸部には現在レフコス・ピルゴス(白塔)と呼ばれる高さ31.5メートルもの円塔が築かれ、細部にイスラーム式の技法が見られることからオスマン帝国時代に完成したとされる。この塔は18~19世紀には監獄として用いられ、1826年にマフムト2世がイェニチェリの大虐殺を行ったため「鮮血の塔」とも呼ばれた。
後にテッサロニキがギリシア領となった際、「鮮血の塔」の印象を払拭するために白色塗料で塗りつぶされたことが、「白塔」という名称の由来となっている。
オスマン帝国による1430年のテッサロニキ占領の際、「鎖の塔」と呼ばれる陸側の小塔は破壊されたため、オスマン帝国によって再建された。
テッサロニキの最高所には城砦が築かれ、7基の方形塔を備える城壁で守られていた。城壁内の塔には1431年にチャオーク・ベクが築いたと記されており、オスマン帝国がテッサロニキを占領した直後に築かれたことがわかる。
このように堅固な造りとなっていた城砦は7基の塔を持つことからトルコ語でイェディ・クーレ(7基の塔)、同じ意味のギリシア語でエピタピルギオンの城砦と呼ばれる。
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オスマン帝国の支配下においてもテッサロニキは中心都市として機能し、1821年に始まるギリシア独立戦争を経てオスマン帝国からギリシアが独立してもオスマン帝国の下にとどまった。
テッサロニキがギリシア領となったのは第一次バルカン戦争後の1913年で、以後テッサロニキはアテネに次ぐギリシア第二の都市として現在に至っている。
現在は海に近い市街地の城壁が破却されたが、市街地背後の部分は約2キロメートルにわたって現存するなど、ギリシアにおいては[[ロードス]]に次いで城壁や城塔が良好に残されている。

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|所在地|ギリシャ、中央マケドニア地方テッサロニキ県テッサロニキ|
|現存状態|城壁、城塔など|
|城郭構造|城塞都市|
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