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城塞都市カイロ の変更点

*現実の城情報 [#information]

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中世イスラーム世界の中心地として繁栄した都市で、「勝利の都」を意味する。
909年、アッバース朝に対抗する過激シーア派の一派イスマーイール派がウバイド・アッラーフをカリフに推戴してファーティマ朝を建国し、第4代カリフのムイッズの時代の969年にエジプトを征服した。
ムイッズが派遣した将軍ジャウハルはエジプトの州都フスタートに入城し、そこから北に約3キロメートルの場所を軍の駐屯地とし、カリフのための宮殿都市を建設した。この都市は最初「勝利の都」を意味するマンスリーヤと呼ばれたが、その後同じく「勝利の都」を意味するカーヒラ(カイロ)と呼ばれるようになる。
カイロは東西約1100メートル、南北約1150メートルで、中央部のアズハル・モスクの北に東大宮殿が置かれ、第5代カリフのアズィーズの時代に西小宮殿が建設された。北端のフトゥーフ門からは南北にムイッズ通りが伸び、南端のズワイラ門では反逆者や罪人の処刑が行われた。
当初のカイロはカリフと軍隊だけが住む小さな都城で軍事・行政の中心地としての機能を持つのみにとどまり、商業・経済の中心地はフスタートが持っていた。しかし1047年にカイロを訪れたイラン人のナースィル・ホスローは著書『旅行記』で、市街地化が進み多くの人でにぎわうカイロの繁栄を記している。
またアッバース朝の弱体化に伴い[[バグダード]]の繁栄も衰え、東西の交易ルートがペルシア湾岸ルートから紅海ルートに転換していったこともあり、イスラーム世界の中心地はバグダードからカイロへと移ることとなった。

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1168年、十字軍勢力がエジプトに侵攻するとファーティマ朝の宰相シャーワルは侵略者による占領を阻止するためフスタートを焼き払い、家を失った多くの人々がカイロやその郊外に移住した。
こうしてフスタートがかつての繁栄を失った一方でカイロはさらに市街地化が進み、ズワイラ門外の南西部にも新しく市街地が形成されていった。
1169年にはザンギー朝のヌール・アッディーンが派遣したシールクーフがカイロに入城してファーティマ朝の宰相となり、その急死後はサラーフ・アッディーン(サラディン)が後任の宰相となり、エジプトの実権を握ってアイユーブ朝を樹立した。
サラディンはファーティマ朝の勢力を一層し、その後ヌール・アッディーン急死後のシリアに侵攻して[[ダマスカス]]を開城させるなど、ザンギー朝に対し優位に立った。
1176年、エジプトに帰還したサラディンは十字軍の侵攻に備えてトルコ人の宦官カラークーシュに城壁の建設を命じ、フスタートとカイロが一体となって取り囲まれた。
さらにサラディンはカイロ市中において二度にわたってイスマーイール派の刺客に襲撃された経験から、市街地化から離れた南側郊外、市街地から約50メートル高いムカッタムの丘にカルアト・アルジャバル(山の城塞)と呼ばれる城塞を築き、自身の安全を図った。現在、ここにはエジプト近代化の祖であるムハンマド・アリーのモスクが建っている。
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サラディンの死後、アイユーブ朝はダマスカスやアレッポなどで一族が自立する分裂の時代となり、やがてアイユーブ朝末期のスルタンであるサーリフが創設したバフリー・マムルーク(海のマムルーク)軍団が、1250年にスルタンのトゥーラーン・シャーを暗殺しマムルーク朝を樹立した。
同じ頃東方ではモンゴル帝国の西征が進んでおり、モンゴル軍を率いたフレグは1256年に[[アラムート城]]のニザール派を討伐し、1258年にはバグダードを落としアッバース朝を滅ぼした。フレグはさらにシリアに進出するが、マムルーク朝はバフリー・マムルークを率いるバイバルスの活躍でアイン・ジャールートの戦いに勝利しモンゴルを撃退した。
戦後バイバルスはスルタンとなり、カイロに入城してマリク・アッザーヒル(勝利の王)と称し、マムルーク朝政権の確立を図った。
1261年、バイバルスはアッバース朝最後のカリフであるムスタースィムの叔父アフマドをカイロに迎え、ムスタンスィルとしてカリフに擁立した。これはマムルーク朝政権の正当化を後押しすることになり、カイロにおけるアッバース朝カリフはオスマン帝国に征服されるまで約240年にわたって続いた。
続いてバイバルスはエジプトとシリアを結ぶバリード(駅伝)を整備し、これによりカイロにいながら地方の動向を把握できるようになり、中央集権化が図られた。
マムルーク朝はナースィルの時代に最盛期を迎え、アッバース朝以来スルタンの宮殿や政府の諸機関が置かれていた「山の城塞」内に、1318年に新たにモスクを建設したのをはじめ、壮大な建築事業を次々と手がけていった。
1326年にカイロを訪れた旅行家のイブン・バットゥータは『大旅行記』で繁栄の絶頂にあるカイロについて語っている。
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しかしナースィルの死後マムルーク軍団の間で権力争いが起こり、マムルーク朝は混乱の時代を迎えた。また地中海世界でのペストの大流行がエジプトにも及んでカイロでは人口が激減し、さらにペストの影響でカイロ・ダマスカス間の交易が衰えたこともあり、カイロの繁栄は急速に失われていった。
同じ頃中央アジアから勢力を拡大したティムールがシリアにも侵攻し、マムルーク朝はアレッポやダマスカスを占領され学者や職人がサマルカンドへと連行された。
同じ頃中央アジアから勢力を拡大したティムールがシリアにも侵攻し、マムルーク朝はアレッポやダマスカスを占領され学者や職人が[[サマルカンド]]へと連行された。
ティムール朝の崩壊後はオスマン帝国がシリアに進出し、マムルーク朝はアレッポ北方でのマルジュ・ダービクの戦いでセリム1世率いるオスマン帝国軍に敗れた。その後セリムは1517年にエジプトに侵攻してカイロに入城し、マムルーク朝最後のスルタンであるトゥーマーン・バイがズワイラ門で処刑されマムルーク朝は滅亡した。
マムルーク朝の滅亡によってカイロの重要性は低下し、イスラーム世界の中心地はカイロからイスタンブールに移ることとなった。
 
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|所在地|エジプト、カイロ県カイロ|
|現存状態|城壁、城門、モスクなど|
|城郭構造|城塞都市|
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