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千石堀城 の変更点

*現実の城情報 [#information]

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千石堀城(せんごくぼりじょう)は根来衆もしくは雑賀衆により築かれたと考えられる山城である。
近木川と見出川に挟まれた丘陵である三ノ丞山に築かれていたと考えられており、規模自体はさほど大きくないものの、大規模な横堀や食い違い虎口など、戦国時代後期によく見られる築城技術が確認されており、周辺の池なども利用した防御網を構築していた
周辺には雑賀衆や根来衆と関係のある城が多くあり、この城も[[積善寺城]]を中心とした城郭網を構成していたものと考えられている。
築城時期は本願寺と織田信長が抗争状態に入った後と見られ、雑賀衆の中でも本願寺に協力するグループが織田勢の南下に備えて築城した城の1つと考えるのが妥当かと思われる。
しかし、この時は織田氏による紀州征伐の際にさしたる抵抗もなく放棄されたとされている。

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本能寺の変からの一連の流れにより天下取りの最有力者となった羽柴秀吉に雑賀衆らは従わず、小牧長久手の戦いの際には中村一氏が入っていた[[岸和田城]]を攻撃するなど背後を脅かす活動を見せた。
いったんは放棄されていた当城もこの時期に再建、補強されたと見られ、現在に残る遺構もこの時期に作られたのではないかと考えられる。
これらの活動の結果、雑賀衆らは秀吉により討伐対象と見なされ、天正12年(1584年)11月、紀州征伐が始まることとなった。
根来衆や雑賀衆も当城など和泉南部の城郭網に兵を配し、秀吉の軍勢を迎え撃った。
千石堀城への攻撃は羽柴秀次をトップに、堀秀政、筒井順慶ら有力武将がつくなど大規模なものであったが、大量の鉄砲を配し、激しく抵抗する城兵の前に大きな被害を出し、二の丸までは落としたものの本丸へ突入することはできなかった。
こうして戦線が膠着したかに見えたが、筒井順慶麾下の部隊が放った火矢による火災が火薬庫に達し爆発を起こしたことで本丸内が大混乱に陥り、これをついた攻撃によりあっけなく落城してしまったという。
落城の際にさらに火をつけられたと見られ、また、城兵なども皆殺しと言っていいレベルで処断されたため、城は跡形もなくなってしまったという。
千石堀城の落城の影響は大きく、周辺の城郭は前線を支えきれなくなり部隊が後退、さらに[[積善寺城]]なども抵抗しきれず和睦により開城するなど、わずか3日で雑賀衆らの前線は崩壊し、羽柴勢の紀州進出を許してしまうこととなった。

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城跡とされている三ノ丞山の南側の尾根には案内板が設置されているなどしており、一時は多少の整備がされていたようであるが、現在では主郭部分はほぼ藪の中だという。
それでも、堀跡や土橋などが今でもはっきりわかるぐらいに保たれているようである。
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|所在地|大阪府貝塚市名越|
|現存状態|堀跡、土橋|
|城郭構造|山城|
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