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勢福寺城 の変更点

*現実の城情報 [#information]

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勢福寺城(せいふくじじょう)は鎌倉期から続く名族少弐氏最期の地となった城である。
佐賀平野東部の北縁にあたる標高196mの城山に築かれた山城で、麓まで含め整備された巨大な中世城郭であった。
最初は南北朝期に北朝方の初代九州探題一色範氏の子で後の2代目九州探題である一色直氏が築城したとされ、本州から移ってきた九州探題一色氏が当地を拠点として南朝方の主力である菊池氏に対峙しようとしたものと考えられている。
しかし、一色氏は拠点となる北九州の大身である少弐氏との対立や観応の擾乱による混乱の中で勢力を失い当地を去り、勢福寺城も一旦表舞台から姿を消した。
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室町期に入ると北九州に対する大内氏の進出が始まり、少弐氏は徐々に衰退、明応6年(1497年)には15代当主少弐政資らが自刃に追いやられ、少弐氏の勢力は壊滅状態となった。
しかし、北九州を巡り大内氏と対立を深めていた大友氏が生き残っていた政資の三男資元を支援し、資元は勢福寺城に入り少弐氏の立て直しをはかった。
結果、少弐氏は佐賀平野から背振山地にかけてを勢力圏に収める勢力にまで回復したが、大内氏の圧力はやまず、さらには家臣である龍造寺氏の台頭などに苦しみ、資元自身も天文5年(1536年)に大内氏により自刃に追いやられた。
資元の子である冬尚は、龍造寺家兼らの支援を受け再度少弐氏を再興することには成功するも、今度は家臣馬場頼周が龍造寺家兼との対立から龍造寺氏を攻撃し、その離反を招くなど家中の混乱が続いた。
最終的に少弐氏は龍造寺隆信の前に追い詰められ、永禄2年(1559年)少弐冬尚は当城で自刃、名族少弐氏は完全に滅亡することとなった。
少弐氏滅亡には元少弐家臣江上武種が城主として入ったが、武種は永禄12年(1569年)における大友氏の肥前侵攻に際して大友方に寝返ったため、大友氏が引き上げると龍造寺氏の攻撃を受け、隆信の次男を養子家種として迎え降伏した。
その後も江上氏の居城であったが、家種は天正17年(1589年)に蓮池城に移り、この時に勢福寺城は廃城になったとされる。
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現在でも城山頂上付近の主郭部分のみならず、尾根先端部に築かれた防御陣地、さらには麓の台地部分には居館部分とされる遺構が比較的良好な状態で残されている。
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|所在地|佐賀県神埼市神崎町城原|
|現存状態|土塁、堀切、井戸、石積等|
|城郭構造|山城|
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