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公方様御構 の変更点

*現実の城情報 [#information]

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歴史上[[二条城]]と呼ばれる城は5つあり、公方様御構はその2番目の城として織田信長が築き、将軍足利義昭の居城となった。
永禄11年(1568年)に信長は義昭を擁して上洛し、征夷大将軍に任命され室町幕府第15代将軍となった義昭は当初本圀寺を宿所としていた。
しかし翌永禄12年(1569年)1月、信長が居城の[[岐阜城]]へ戻った隙を突き、三好三人衆が斎藤龍興らと呼応して本圀寺を襲撃した。
明智光秀の奮戦や各地の織田勢の救援によって三好三人衆は撃退され、信長は岐阜からわずか2日で急行し義昭を保護した。
この事件によって信長は新たな城の必要性を痛感し、足利義輝の居城である二条御所武衛陣御構の跡地に義昭のための築城を開始した。

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築城には尾張・美濃・三河・近江・伊勢・若狭・丹後・丹波・播磨、そして畿内五ヶ国の計14ヶ国から動員され、信長自らが普請総奉行となり、大工奉行に村井貞勝・島田秀満を任じた。
『信長公記』には「二条の古き御構、堀をひろげさせられ」と記され、義輝の旧城を基に拡張したことがうかがえる。
築城の際には本圀寺の建物の一部が解体・移築され、屏風や絵画などの什器も持ち込まれ、また義昭に仕える細川藤賢の屋敷にあった名石「藤戸石」が信長自ら指揮を執って運び込んだ。
さらに慈照寺からは名石「九山八海」が、その他にも洛中洛外から名石・名木が集められて庭園が造営された。
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築城工事は約70日間という短期間で終わり、完成した城は「公方様御構」と呼ばれ、同年4月16日に義昭が入城した。
ルイス・フロイスはその著書『日本史』で、三町(約400メートル四方)の面積の城は内郭と外郭で構成され、これらが二重の堀で囲まれ、3つの出入口がある堀には水鳥が入れられ、見張り所と砦が築かれ、石仏・石塔・墓石などが石垣造りに用いられたことを伝えている。
また『兼見卿記』に記された「西ノ門矢倉」は西の櫓門を指し、「南巽のだしの磊出来、只今東之だし沙汰之」とあるように南西と東には石垣を伴った「だし(張り出し部)」があり、「坤角三重櫓」は実質的な天守だった南西の三重櫓を表している。
昭和50年(1975年)~昭和53年(1978年)の烏丸通の地下鉄工事に伴う発掘調査では石垣と堀の一部が発見され、石垣には大量の石仏・供養碑・五輪塔・石臼などが用いられていることが分かった。
その後の調査では、現在の下立売通・椹木町通・室町通・烏丸通に囲まれた範囲が内郭、外郭は北が出水通、南が丸太町の範囲と判明し、これらが二重の堀で囲まれていたことも分かり、これらはフロイスの記述を裏付けている。
フロイスはその後、元亀4年(1573年)に信長を恐れた義昭が新たな堀を築いたという記録も残しており、これを裏付けるように平成28年(2016年)の発掘調査で内堀と外堀との間で堀が発見され、最終的には三重の堀が構えられたことが分かった。
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信長に擁立されて将軍となった義昭だったが次第に信長との関係は悪化し、信長の敵対勢力に御内書を下すなど反信長勢力の結集を図るようになった。
これに対し信長は元亀3年(1572年)に十七条にわたる諫言書を義昭に突きつけたことで両者の対立は決定的なものとなり、翌元亀4年(1573年)3月に義昭は信長に対し挙兵した。
義昭は城に新たに堀を設けて防備を固めたが、信長は上京の町屋を焼き払って義昭に圧力をかけ、義昭は正親町天皇の勅命を受け入れ和睦した。
同年7月、義昭は勅命を破って再挙兵し槇島城に立て籠もったが、信長の大軍に包囲され降伏した。
同年7月、義昭は勅命を破って再挙兵し[[槇島城]]に立て籠もったが、信長の大軍に包囲され降伏した。
信長は義昭を京から追放し、『言継卿記』によるとこの時公方様御構は廃城となり、最終的には天正4年(1573年)に堀が埋められ、建築物は解体され[[安土城]]に転用された。

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|所在地|京都府京都市中京区武衛陣町|
|現存状態|堀、石垣など|
|城郭構造|平城|

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