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二俣城 の変更点

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遠江の要衝を押さえた城として、今川氏と斯波氏、武田氏と徳川氏が争奪戦を繰り広げた城。
今川氏は足利氏将軍家の一門・吉良氏の分家で、足利氏宗家と将軍職の継承権を有する名門で、駿河と遠江の守護を兼ねていたが、室町幕府三管領家の筆頭・斯波氏が応永12年(1405年)に遠江の守護となると、遠江は斯波氏の領国となった。
今川氏は足利氏将軍家の一門・吉良氏の分家にあたり、足利氏宗家と将軍職の継承権を有する名門で、駿河と遠江の守護を兼ねていたが、室町幕府三管領家の筆頭・斯波氏が応永12年(1405年)に遠江の守護となると、遠江は斯波氏の領国となった。
以来、今川氏は遠江の奪還を悲願とし、今川義親が駿河への侵攻を本格化させ、今川氏に属した二俣昌長が今川氏の拠点として笹岡古城を築いたのが二俣城の始まりとされる。

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氏親は十数年に渡り斯波氏との抗争を展開し、永正14年(1517年)に[[曳馬城]]を攻略して斯波氏を追い、遠江支配を確立した。
その後今川氏は家臣の松井氏に命じ、天竜川と二俣川に挟まれた要害の地に新たに二俣城を築かせたという。
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永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで二俣城主松井宗信は今川義元とともに討死し、宗信の子・宗恒は今川氏真に仕えるが、甲斐の武田信玄と三河の徳川家康によって今川氏は滅亡し、二俣城は家康の支配下に置かれ鵜殿氏長、中根正照が城代となった。
元亀3年(1572年)、信玄が遠江侵攻を開始すると二俣城は武田勝頼に攻撃され頑強に抵抗したものの、勝頼は飲み水を汲み上げる水の手櫓を天竜川の上流から流した大量の筏で破戒し、水の確保に苦しんだ二俣城は開城した。
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武田氏は依田信蕃を城代として置き二俣城の修築を行ったが、天正3年(1575年)の長篠の戦いで大敗すると家康は反撃に転じ、二俣城の対岸に付城である鳥羽山城を築いて攻勢をかけ、同年末に開城させた。
その後の天正7年(1579年)には織田信長に武田氏への内通を疑われた家康の嫡男・信康が二俣城で切腹している。
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天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐後に家康は関東へ移り、新たに遠江に入った堀尾吉晴は二俣城を[[浜松城]]の支城とし、弟の宗光を入れた。
堀尾氏の時代に二俣城は石垣造りの城として改修されたが、その改修は本丸・二の丸にとどまり、それ以外の部分は武田氏・徳川氏時代の遺構が残されている。
その理由は急峻な地形に築かれた二俣城は支城として機能させるには制約が大きく、その役割の一部を対岸の鳥羽山城に求めたからだと考えられている。
鳥羽山城には居住空間が設けられ平時の城として使われたのに対し、二俣城は要害として戦時に使用することを想定され、いわゆる一城別郭の関係で相互に補完し合っていた。
関ヶ原の戦い後に堀尾氏は[[出雲富田>月山富田城]]に転封となり、それに伴って二俣城は廃城となった。

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|所在地|静岡県浜松市天竜区二俣町二俣|
|現存状態|堀、土塁、石垣など|
|城郭構造|連郭式山城|

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