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三沢城 の変更点

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三沢城(みざわじょう)は島根県仁多郡奥出雲町(出雲国仁多郡)にあった山城で、尼子十旗の一つとしても数えられた。鴨倉城とも呼ばれる。
標高418mの要害山を利用して築かれ、頂上付近には堀切で区切られた2つの郭が存在し、そこから尾根筋に多くの小郭が存在している。
三沢城(みざわじょう)は島根県仁多郡奥出雲町(出雲国仁多郡)にあった山城で、[[尼子十旗>日本100名城#x0ba649d]]の一つとしても数えられた。鴨倉城とも呼ばれる。
標高418メートルの要害山を利用して築かれ、頂上付近には堀切で区切られた2つの郭が存在し、そこから尾根筋に多くの小郭が存在している。
城主三沢氏は清和源氏木曾義仲の末裔とも、清和源氏満快流飯島氏の流れともされ、三沢為光が承久の乱の戦功によって当地の地頭職を得、その子孫三沢為長が鎌倉末期に土着、嘉元3年(1305年)に要害山に城を築いた。
三沢氏はここを拠点に周辺の製鉄業や山林資源をおさえ、出雲の有力国人として成長していったと見られている。
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室町期には当初守護であった山名氏、そしてそれにかわった京極氏に仕え所領の安堵を受けていたと見られるが、尼子経久が京極氏にとってかわると、三沢為国は経久と対立したが長享2年(1488年)に降伏し、尼子氏の旗下に入った。
戦国期の当主である三沢為幸は天文9年(1540年)の[[吉田郡山城]]攻めの際に戦死、その子為清は一旦大内氏に降るも[[月山富田城]]攻めで尼子氏に再度寝返り、大内勢総崩れの引き金を引くなど、もっぱら尼子氏に従って活躍した。
その一方で、半独立した国人領主としての性質も強く、尼子氏の命に従わずに攻撃を受けるなどした他、中央集権化を進めていた尼子晴久は三沢氏の権益を奪うなど、三沢氏は尼子氏から圧迫を受け、徐々に不満を募らせていった。
急死した晴久の跡を継いだ義久は三沢氏の懐柔を図るも、最終的に不満の方が大きかったか、永禄4~5年(1561~1562年)にかけて、赤穴氏、三刀屋氏などとともに毛利氏に降伏し、毛利氏の尼子攻めに加わった。
その後の三沢氏は尼子再興軍に関わることもなく一貫して毛利氏に仕えたが、三沢為虎は天正17年(1589年)三沢の所領を没収され、かわりに長門国厚狭郡に1万国をあてがわれた。
その後の三沢氏は尼子再興軍に関わることもなく一貫して毛利氏に仕えたが、三沢為虎は天正17年(1589年)に三沢の所領を没収され、かわりに長門国厚狭郡に1万石をあてがわれた。
三沢城はこれ以降史料に現れることもなく、この時に廃城になったと見られる。
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その後の三沢氏は長州藩家老を務めるなど長州藩重臣として続いた他、長州藩を出奔した為虎の子為基は仙台藩に仕え、その子清長の娘が仙台藩第3代藩主伊達綱宗に嫁ぎ、第4代藩主綱村、宇和島藩第3代藩主宗贇の母となったことから、清長の流れは仙台藩の重臣となった。
他にも、鳥取藩池田氏に仕えた仕えた一族がいたという。
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城跡は現在でもよく保存されており中世期の大規模山城の威容を伝えている。主郭部分への登城ルートも整備されており、その途中で大手口の石垣や、本丸堀切跡などが確認できる。
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|所在地|島根県仁多郡奥出雲町三沢|
|現存状態|石垣、堀切、井戸跡|
|城郭構造|山城|

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