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三春城 の変更点

*現実の城情報 [#information]

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陸奥国田村郡を治めた田村氏の居城として築かれた、福島県中通りを代表する城で、改修された各時代の特徴がよく残る。
田村氏は坂上田村麻呂の後裔を自称する豪族で、田村義顕の代で戦国大名化し、永正元年(1504年)に本拠を陸奥守山城から三春城に移した。義顕が初めて三春城に入った際、上空を一羽の丹頂鶴が飛んだことにちなみ、「舞鶴城」とも呼ばれる。
三春城は阿武隈山地西麓、三春町中心部の「お城山」と呼ばれる標高407メートルの大志田山に築かれた。「三春」の地名が「見張る」から転じたという説があるように、三春城からは郡山市街地や安達太良山、那須連山、片曽根山、鎌倉岳、移ヶ岳など田村地方の山々を見渡すことができる。
しかし籠城戦には不向きであったため、田村氏は領内の24の支城を活用して周辺諸勢力の侵攻を撃退した。

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田村氏は義顕・隆顕・清顕の三代に渡って田村地方を支配し、白河結城氏・伊達氏・相馬氏・蘆名氏など同盟を次々と変えて勢力を保った。しかし蘆名氏と佐竹氏が協調すると田村氏は孤立し、清顕は一人娘の愛姫を伊達政宗に正室として嫁がせ、伊達氏と同盟関係を結ぶことによって独立を保った。
天正14年(1586年)に清顕が跡継ぎのいないまま死去すると後継者問題が起こり、伊達政宗と愛姫の男子を迎えるべきという重臣を中心とするグループと、相馬家から次の当主を迎えるべきという相馬家出身の清顕未亡人の於北の方を中心とするグループに相馬派に分裂する。
天正14年(1586年)に清顕が跡継ぎのいないまま死去すると後継者問題が起こり、伊達政宗と愛姫の男子を迎えるべきという重臣を中心とするグループと、相馬家から次の当主を迎えるべきという相馬家出身の清顕未亡人の於北の方を中心とするグループに分裂する。
この分裂状態はしばらくはにらみ合い状態にあったが、大崎合戦での伊達氏の敗北から状況が一気に動き始める。
天正16(1588)年3月から蘆名氏が郡山盆地の伊達諸城を攻撃する状況の中、4月になり相馬義胤は[[小手森城]]主の田村家臣石川光昌を調略し、自陣営に引き込むことに成功する。
翌5月にようやく南方に移動してきた伊達政宗の軍が[[小手森城]]を攻撃するのに手を焼いていることから、伊達本軍と田村領の分断に成功したと判断した義胤は、大越顕光などの田村家中の相馬派と連携し閏5月伊達派を一掃すべく三春城への入城を図った。
しかし、これは三春城に在していた重臣である伊達派の田村月斎や橋本顕徳らの頑強な抵抗により失敗し、[[船引城]]に引き返すことになった。
事態の報告を受けた政宗は強攻で[[小手森城]]を落城させ、石川光昌を追い払うと三春城に入る一方で、義胤は[[船引城]]からも撤退せざるをえなくなり、ややもすると伊達軍は相馬派であった大越顕光の[[大越城]]を攻撃するなど、義胤は一気に敗北手前まで追い込まれた。
これに対して義胤は蘆名義広、佐竹義重、岩城常隆などの反伊達の諸将に援軍を求めたが、田村領に強い野心を抱いていた岩城常隆は相馬氏が田村氏を支配することを嫌い援軍を拒否、それどころか家臣を通じて蘆名・佐竹が動き出した情報を伊達家に流した。
結果、6月に蘆名・佐竹を中心とする連合軍が[[郡山城]]に向けて進出するが、準備をして待っていた伊達氏の抵抗の前に攻めあぐね、結局連合軍は岩城常隆と[[三芦城]]主石川昭光の仲介により7月に和平、撤退したことで逆転の可能性は失われた。
妨害の排除に成功した政宗は三春に戻ると、於北の方を[[船引城]]に隠居させることを決めるとともに、清顕の甥である孫七郎を次の当主である「政宗と愛姫の間の男子」が決まるまでの当主の名代とし、宗顕と名を改めさせた。
それから政宗は三春城に約一ヶ月間在城し、三春城とその周囲の要害を整備し、相馬派家臣の城館を破却し田村家中の統制を図った。以上の経緯を経て田村氏が伊達氏に従属する立場が確立した。この田村氏の当主相続を巡る一連の出来事を田村仕置という。
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しかし、相馬派であった大越顕光の[[大越城]]や、政宗による田村家中の引き締めの最中に出奔した重臣田村梅雪斎・清康親子が入る[[小野城]]は政宗の命に服さず、両者はこれに対抗するための後ろ盾として岩城氏の傘下に入ろうとした。
これは相馬と伊達の争いが共倒れに終わること(漁夫の利で自分が田村領を支配すること)を望んでいた岩城常隆にとっては格好の介入の口実となり、翌天正17(1589)年になると早速彼は田村領に兵を出し伊達・田村氏と一触即発状態となった。
この対応のために南方に移動した政宗であったが、大内定綱の弟で[[片平城]]主片平親綱が調略に応じたことで一転して蘆名攻撃へ作戦を転換、そして摺上原の戦いに勝利し、蘆名氏は滅び、岩城常隆も引き上げざるをえなくなり彼の野望も潰えた。
天正18年(1590年)の豊臣秀吉による奥州仕置では、田村氏は小田原に参陣しなかったことを咎められて所領没収となり、三春城は伊達氏が所有したのち、会津に入った蒲生氏郷によって[[会津若松城]]の支城となった。三春城には蒲生氏の与力の田丸直昌が城代として入ったが、やがて陸奥守山城に移った。
氏郷の死後に会津に入った上杉景勝も田村郡を領有したが、同じく三春城は用いずに陸奥守山城に城代を置き田村郡を支配した。
関ヶ原の戦いで景勝が米沢に移されると会津には蒲生氏が復帰し、蒲生郷成が三春城の城代となった。その後蒲生郷治、郷成の子の郷喜・郷舎兄弟、再び郷治など、蒲生家中の重臣が城代を歴任した。
寛永4年(1627年)、蒲生氏の転封後には加藤嘉明が入り、三春城には嘉明の三男の明利重臣が配置された。しかし嘉明の娘婿である[[二本松城]]主の松下重綱が急死すると、翌寛永5年(1628年)には明利は二本松城へと移り、三春城には松下長綱が入り、三春城は大規模な改修が行われ近世城郭へと姿を変えた。
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長綱が改易されると、[[脇本城]]などを拠点に出羽国で勢力を伸ばした安東氏の後身である秋田氏が三春城主となり、この秋田氏の時代に松下氏時代の城郭を踏襲しつつ、居館を山頂から山麓に移し平山城として改修された。
三春城の本丸は標高400メートル以上の山頂部に置かれ、東西に長い上段の平場と南北に長い下段の平場からなり、標高360メートル前後の部分には帯曲輪がめぐり、秋田氏時代にはこの内側が本城と呼ばれた。
本城からは北西と南東方向に尾根が伸び、堀切によって北西の二の丸、南東の三の丸に区画された。三の丸周辺には東側に土塁や堀切が設けられ、西側は複数の竪堀で防御された。
このように三春城は本丸・二の丸・三の丸を中心とする複数の曲輪群から構成され、それぞれが独立して機能するような縄張だった。そして曲輪ごとの標高差が家中での序列を示しており、最高位の本城の裾にだけ石積を築くような差別化もなされた。
以後三春城は三春藩秋田氏11代の居城として機能し、明治4年(1871年)の廃藩置県で廃城となった。
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三春城では本丸と御殿が主に使用されたこともあって、本丸東側の帯曲輪や三の丸に中世の田村氏時代の遺構が残り、本丸裏門跡や本丸北東角には蒲生氏時代の石垣があり、松下氏・秋田氏時代の近世城郭の遺構と合わせ、各時代の異なる築城技術が見られる。
また三春城は桜の名所としても知られ、三春城が築かれた田村郡には日本五大桜あるいは三大巨桜の一つに数えられる「三春滝桜」があり、[[天下統一・桜花の巫女~陸奥(磐城)~>合戦/1-26]]にも登場している。
平成29年(2017年)には[[続日本100名城>日本100名城#o6df7c09]]に選定された。

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|所在地|福島県田村郡三春町|
|現存状態|石垣、土塁など|
|城郭構造|山城、平山城|
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