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*現実の城情報 [#information]

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延元3年・暦応元年(1338年)に阿波守護で阿波小笠原氏の祖である小笠原長房の四男・長宗が、一宮宗成を滅ぼして城を築いた。長宗はその後一宮の姓を名乗るようになり、一宮城は一宮氏代々の居城となった。
長宗は南朝についたが、子の成宗は細川頼之に敗れ隠居、その子成行は北朝に降った。以後一宮氏は細川氏につくが、阿波で三好氏が台頭すると三好氏に従って姻戚関係を結び、一宮成助の代には三好氏の家臣団の中でも重要な地位を占めるようになった。
しかし成助は三好長治と対立し、天正5年(1577年)には阿波守護細川真之と結んで長治を討った。しかし三好方の矢野国村が細川方の伊沢頼俊を討つと成助は孤立し、土佐の長宗我部元親に支援を求めた。成助は篠原自遁に一宮城を攻撃され一時は城を捨て焼山寺に逃れたものの、天正7年(1579年)には一宮城に復帰し、長宗我部方として織田信長の支援を受けた十河存保と[[勝瑞城]]をめぐって攻防戦を繰り広げた。
天正5年(1582年)の本能寺の変で信長が横死すると元親は阿波へと侵攻し、成助は中富川の戦いでの元親の勝利に貢献したが、元親は成助が三好康長と通じていたことを咎め、夷山城に成助を招いて謀殺し一宮氏は滅亡した。
元親は一宮城に新たに南城を築いて谷忠澄を城代として置き、旧城の北城には江村親俊を城代とした。天正13年(1585年)の羽柴秀吉による四国平定の際には一宮城は羽柴秀長の大軍に包囲され、善戦したものの開城した。その後阿波を与えられた蜂須賀家政は一宮城に入った後、天正14年(1586年)に新たに築いた[[徳島城]]に移った。一宮城には益田宮内が城代として入り、阿波九城と称される徳島城の支城の一つとして機能し、寛永15年(1638年)に廃城となった。

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一宮城は戦国時代の山城として阿波でも最大級の規模を誇り、鮎喰川に面した東竜王山北東端に東西約800メートル、南北約500メートルに渡って築かれた。
中央部は本丸、明神丸、才蔵丸からなり、本丸から谷を隔てた南側には小倉丸、その西側には椎の丸、そして北側の頂部には水の手丸が配置された。もっともその縄張には技巧があまり見られず、曲輪を階段状に置いた単純なものであり、城の北側を鮎喰川が、東側を船戸川と園瀬川が天然の堀として守る、自然地形を利用した城だった。
しかし小倉丸の西側には土塁が設けられ、櫓台を置いて横矢を意識し、さらに横堀をめぐらせて本丸南方を守る防御の要となっており、一宮城のなかでも縄張に技巧が発達した部分となっている。
また本丸には、ほとんど反りを持たず隅部の算木積も未発達なものながら石垣が用いられており、蜂須賀氏時代に改修された際に築かれたとされる。
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平成29年(2017年)には[[続日本100名城>日本100名城#o6df7c09]]に選定された。

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|所在地|徳島県徳島市一宮町|
|現存状態|土塁、堀、石垣など|
|城郭構造|梯郭式山城|

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