Top > ババ・ヴィダ城

ババ・ヴィダ城 の変更点

*現実の城情報 [#information]

//編集前に[[テンプレート/城娘]]の「現実の城情報」をご確認ください。(このコメントは必ず残してください。他のコメントは不要なら削除していいです)

第一次および第二次ブルガリア帝国の中心都市であるヴィディンに築かれた城塞。
ブルガリアでは7世紀末から東ローマ帝国(ビザンツ帝国)内で勢力を確立していき、ブルガリア王シメオン1世は東ローマ帝国と戦って勝利し、913年にコンスタンティノープル総主教から「皇帝」として加冠され、さらに「ブルガリア人とローマ人の皇帝」を名乗った。
926年にはブルガリア大主教を総主教に格上げさせてブルガリア正教会をコンスタンティノープル総主教から独立させるなど第一次ブルガリア帝国の最盛期を築き、ヴィディンはその中心的な都市に位置づけられた。
ババ・ヴィダ城の建設もこの頃に始まり、古代ローマの城塞都市ボノニアの跡地に築かれたババ・ヴィダ城はブルガリア北西部を守る重要拠点となった。
しかしその頃東ローマ帝国では「ブルガロクトノス(ブルガリア人殺し)」の異名を持つことになる皇帝バシレイオス2世がブルガリア征服を押し進め、ババ・ヴィダ城は1003年に8ヶ月に及ぶ包囲の末に落城した。その後もバシレイオスはブルガリア征服を進め、1018年に第一次ブルガリア帝国は滅亡する。

#br
#style(class=submenuheader){{{
&color(White,Maroon){続きをクリックで表示};
}}}
#style(class=submenu){{{

ブルガリアは東ローマ帝国に併合したが、11世紀後半には東方からセルジューク朝が、西方からはノルマン人やアラブ人に攻撃されて劣勢に陥り、またブルガリアでも反乱が頻発するようになった。
1185年にはアセンとペタルが大規模な反乱を起こして1188年に独立を勝ち取り、第二次ブルガリア帝国が成立した。
第二次ブルガリア帝国でもヴィディンは重要な都市となり、ババ・ヴィダ城はこの時代に多くの建造物が建てられた。城はドナウ川の水を引き込んだ堀で守られ、狭間を備えた城壁と9棟の防衛塔で防御された。
第二次ブルガリア帝国は1241年のイヴァン・アセン2世の死後、モンゴル帝国の来襲もあって急速に衰え、ヴィディンは半独立的な勢力として帝国内で力を持つようになり、1323年にはヴィディンのデスポト(封建領主)であるミハイル・シシュマンがミハイル3世としてブルガリア皇帝に即位し、第二次ブルガリア帝国の最後の王朝であるシシュマン朝が開かれた。
1356年には皇帝イヴァン・アレクサンダルが次男のイヴァン・スラツィミルをヴィディンの統治を命じ、イヴァン・スラツィミルはヴィディンで皇帝を名乗って独自の支配権を確立し、事実上第二次ブルガリア帝国から独立した勢力となった。
1365年にはヴィディンはブルガリア王の称号を自称するハンガリー王ラヨシュ1世に攻撃され、ババ・ヴィダ城は数ヶ月間の包囲に耐えたものの落とされ、ヴィディンは1369年までハンガリー王国の支配下に置かれた。
#br
ハンガリー王国の勢力が撤退すると今度はオスマン帝国がブルガリアに侵攻するようになり、1393年には第二次ブルガリア帝国の首都タルノヴォが攻略され、ブルガリア皇帝イヴァン・シシュマンは1395年に殺された。
ヴィディンのイヴァン・スラツィミルはオスマン帝国に臣従しブルガリアで唯一の独立勢力となったが、1396年のニコポリスの戦いの際にオスマン帝国に反抗したため、戦後ヴィディンはオスマン帝国に併合され第二次ブルガリア帝国は完全に消滅することとなった。
オスマン帝国時代でもババ・ヴィダ城は重要な城塞として機能したが、18世紀後半には武器庫や食料庫、刑務所として利用されるようになった。
1878年にブルガリアがオスマン帝国から大ブルガリア公国として独立すると、ババ・ヴィダ城はブルガリア軍の施設となって一時は立入禁止となった。
第二次世界大戦後にブルガリアは共和制国家となり、1956年からはババ・ヴィダ城の発掘調査が始まり歴代支配者の遺品が出土し、1958年からは一般公開され博物館も建てられた。
現在、ババ・ヴィダ城はブルガリアにおいて最も保存状態の良い中世建造物として管理・維持されている。

}}}

|BGCOLOR(#ddd):80|300|c
|所在地|ブルガリア、ヴィディン州ヴィディン|
|現存状態|復元|
|城郭構造||

*コメント [#comment]
#pcomment(,reply,10,)


ホーム リロード   新規 下位ページ作成 コピー 編集 添付 一覧 最終更新 差分 バックアップ 検索   凍結 名前変更     最終更新のRSS