鷹ノ原城 のバックアップの現在との差分(No.1)
現実の城情報肥後・筑後の国境に位置し、肥後熊本藩の本城・熊本城を守る8つの支城群のなかでも肥後北端を押さえる重要拠点。 続きをクリックで表示 南関城は標高約110メートルの東西に広がる丘陵上の東端に築かれ、本丸を中心に北側に二の丸、西側に三の丸がL字型に配置され、南麓を豊前街道が通り北側は長谷と呼ばれる深い谷が走っていた。 なぜ土造りの城と思われていたかというと、城全体が平均5メートルの盛土で覆い隠されていたため、石垣がほとんど確認されていなかったからである。 この時期はちょうど島原の乱が起こった頃であり、一揆勢が廃城になっていた原城に立て籠もって激しく抵抗したこともあり、日本全国ですでに廃城となった城の破却が行われており、南関城もまた徹底的に破却された。 この時期はちょうど島原の乱(正確には島原・天草一揆)が起こった頃であり、一揆勢が廃城になっていた原城に立て籠もって激しく抵抗したこともあり、日本全国ですでに廃城となった城の破却が行われており、南関城もまた徹底的に破却された。 その破城は凄まじく、石垣を一つ一つ外して堀底に並べ、その上に念入りに土を盛って城全体を土の中に埋めてしまうというものだった。 わずかに残る打込接で積まれた石垣は、熊本城と同じく扇の勾配と呼ばれる独特の形状をしている。 破壊されたのちも豊前街道が通るこの地は多くの人々に利用され、特に参勤交代では肥後国内での最後の休憩所・宿泊所であったため御茶屋が置かれた。
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