高祖山城 のバックアップの現在との差分(No.1)
現実の城情報高祖山城(たかすやまじょう)は周船寺の南に位置する高祖山の山頂に存在した山城である。筑前の名族と謳われた原田氏の本城として知られ、怡土城の城跡を利用して築かれた。 建長元年(1249年)、原田種次が廃城となった怡土城の一部を利用して高祖錠を築き、230余年の間、原田氏の本城となった。そのため別名を原田城ともいう。 天正14年(1586年)、秀吉が九州平定の軍を起こすと原田氏の一族家臣のほとんどが秀吉への降伏を進言したが、島津氏に属していた原田信種は抗戦を決意した。 高祖山城(たかすやまじょう)は周船寺の南に位置する高祖山の山頂に存在した山城である。筑前の名族と謳われた原田氏の本城として知られ、怡土城の城跡を利用して築かれた。 建長元年(1249年)、原田種次が廃城となった怡土城の一部を利用して高祖山城を築き、230余年の間、原田氏の本城となった。そのため別名を原田城ともいう。 天正14年(1586年)、豊臣秀吉が九州平定の軍を起こすと原田氏の一族家臣のほとんどが秀吉への降伏を進言したが、島津氏に属していた原田信種は抗戦を決意した。 長垂山に500人、日向領を600人で固め、2000人余りを高祖山城で籠城させ、秀吉の軍を迎え討つ算段であった。 しかし、小早川隆景が攻撃を始めると長垂山、続いて油阪の陣が悉く破られ、勝機なしと見た信種はついに降伏し高祖山城は落城してしまう。 原田氏は領地を没収され、のちに信種は加藤清正に属し、家臣は吉川、小早川、黒田氏と散り散りとなって仕えたと伝わる。 しかし、小早川隆景が攻撃を始めると長垂山、続いて油阪の陣が悉く破られ、勝機なしと見た信種はついに降伏し高祖山城は開城されてしまう。 原田氏は領地を没収され、のちに信種は加藤清正に属し、家臣は吉川氏、小早川氏、黒田氏と散り散りとなって仕えたと伝わる。 現存状態(クリックで表示) 上城、下城の二つで構成されており、上城は高祖山本城で東西13メートル、南北61メートルほどの規模で、城台の周囲に高さ1メートル程度の土塁が現存する。東にも石塁といくつかの竪濠が確認できる。 上城、下城の二つで構成されており、上城は高祖山本城で東西13メートル、南北61メートルほどの規模で、城台の周囲に高さ1メートル程度の土塁が現存する。東にも石塁といくつかの竪濠が確認できる。 かえして下城は二段からなり、東西15メートル、南北53メートルほどで石塁、空堀が今でも確認できる。上城とは土橋を通り3つの曲輪を越え、谷を隔てて連絡している。
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