高屋城 のバックアップソース(No.1)
*現実の城情報 [#information]

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応永年間(1394年~1428年)に畠山基国が築いたともされるが、文献上では高屋城と記したものはなく、古市城や誉田城との混乱が見られる。
発掘調査の結果によれば、文明11年(1479年)頃の築城であり、それに従えば築城主は応仁の乱後も戦い続けたことで知られる畠山義就であると考えられる。
以後、畠山家の家督騒動の舞台として幾度も落城し、三好長慶が河内に進出すると情勢はさらに混乱を極めた。
三好家も久米田の戦いで長慶の弟・三好実休を畠山高政に討ち取られると弱体化したが、その後の教興寺の戦いでは高政に大勝した。
高政は室町幕府13代将軍・足利義輝が三好三人衆らに討たれると(永禄の変)、家督を弟の畠山秋高に譲り、足利義昭擁立に奔走した。
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義昭と織田信長の間に溝が深まると秋高は信長を支持したが、天正元年(1573年)に義昭派である家臣の遊佐信教に攻められると自害した。
信教は同じく反信長派であった三好康長と結び、康長を高屋城に入城させて信長を相手に抵抗したが、天正3年(1575年)に降伏した。(高屋・新堀城の戦い)
信教はこの戦いで戦死したともいうが確かな記録はなく、[[石山御坊]](石山本願寺)とともになお抵抗を続けたと考えられている。
いずれにせよ、高屋城は信長の攻略をもって廃城になったとされる。
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高屋城の本丸は高屋築山古墳(安閑天皇陵)という前方後円墳を利用したものであり、現在は立ち入り禁止となっている。
しかし、南側の二の丸は7万平方メートル、三の丸は10万平方メートルの規模を誇り、これだけでも大規模な城郭であると言える。

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|所在地|大阪府羽曳野市古市|
|現存状態|空堀、土塁など|
|城郭構造|連郭式平山城|

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