騎牟礼城 のバックアップの現在との差分(No.1)

  • 追加された行はこの色です。
  • 削除された行はこの色です。
久安二年(1150年)から久寿二年(1156年)まで、源鎮西八郎為朝が砦として使用したという史料があるようです。大友氏の分家の志賀氏が応安二年(1369年)頃、直入郡に入った際に、最初はこの城に入ったともいわれているようです。その後、岡城に移った志賀氏の支城として機能し、天正十四年(1369年)には志賀親次が島津軍を撃退した際の岡城の防衛拠点であったようです。また、明治十年(1877年)の西南戦争でも陣地として使用されたようです。 <現地説明板より>
*現実の城情報 [#information]

//編集前に[[テンプレート/城娘]]の「現実の城情報」をご確認ください。(このコメントは必ず残してください。他のコメントは不要なら削除していいです)

騎牟礼城の歴史は久安二年(1150)から久寿二年(1156)まで六年間鎮西八郎為朝の豊後での活躍時期に始まる。「豊後国史」の六巻には「仁平中源公子為朝干此云」とあり、源為朝が騎牟礼城としたと記されている。(平成二年より逆算840年前)
場内は五箇所の廓(くるわ)土塁、空濠か僅かに残り、中世の山城の形式が見られる、天正十四年(1586)の豊薩戦争、明治十年(1866)の西南の役などでは、戦略上重要な陣地となった。 また文久二年(1861)建立の楠公逢拝所の塔、明治七年(1874)佐賀の役に出陣した岡藩士石川政夫の忠魂碑がある。また騎牟礼城は別名騎牟礼群城、騎牟礼城、鎮西城ともいわれ近年は古城(ふるしろ)と呼ばれ地域住民の憩いの場として久しく親しまれてきた。
 平成二年 三月二十五日-騎牟礼城阯公園保存会-<現地説明板より>

*コメント [#comment]
#pcomment(,reply,10,)



ホーム リロード   新規 下位ページ作成 コピー 編集 添付 一覧 最終更新 差分 バックアップ 検索   凍結 名前変更     最終更新のRSS