駒ヶ嶺城 のバックアップの現在との差分(No.2)
現実の城情報駒ヶ嶺城(こまがみねじょう)は福島県相馬郡新地町(陸奥国宇陀郡)にあった城で、江戸期の伊達氏の要害の一つ(後に所に格下げ)。 続きをクリックで表示 伊達輝宗の代に伊具郡が伊達氏の手に戻ると、残る伊達稙宗遺領にあった駒ヶ嶺城は伊達氏の強い圧力にさらされるようになり、最終的に天正17(1589年)年亘理重宗の攻撃によって落城することとなる。 江戸時代に入ると駒ヶ嶺要害として仙台藩領南端の防衛に関わる要所と位置づけられ、新田氏、富塚重信などを経て、宮内定清以降は宮内氏が代々城主を務めた。 江戸期に入ると駒ヶ嶺要害として仙台藩領南端の防衛に関わる要所と位置づけられ、新田氏、富塚重信などを経て、宮内定清以降は宮内氏が代々城主を務めた。 18世紀には要害から所へと格下げされるも役割はかわることがなく、戊辰戦争が始まると、浜通り方面防衛のための本営が置かれた。 しかし、相馬中村藩が新政府軍に降伏したことで、新政府軍の大規模な攻勢を受けることとなり、あえなく落城した。 仙台藩は奪還を試みたものの失敗に終わり、そのまま仙台藩も新政府軍に降伏したため、廃城となった。 現在では城跡は城址公園となっており、江戸時代末期における縄張りや空堀などの遺構が現在でもはっきり見て取れるほどによく保存されている。 現在では城跡は城址公園となっており、江戸末期における縄張りや空堀などの遺構が現在でもはっきり見て取れるほどによく保存されている。 また麓には戊辰戦争の際の戦死者を弔う仙台藩士戊辰戦没之碑も立っている。
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