香春岳城 のバックアップの現在との差分(No.1)
現実の城情報筑豊地方においては常に争奪戦の渦中にあったのがこの香春岳城(かわらだけじょう)である。古来より要衝の地であり、「豊前を制しようとすれば、香春岳城を攻略すべし」とさえ言われてきた。 城は一ノ岳、ニノ岳、三ノ岳と3つの岳を巻き込み要塞化され、香春岳の一ノ岳東北に砦の館が指揮砦となり城主が居たとされる。かなり掘削され縄張りで不明な部分は多い。初めて城として築城されたのは天慶2年(939年)であった。 西海で平将門が下総に反したことを受け、藤原純友が将門に即応して翌年に反旗を九州に翻した。大宰府攻撃の基地として香春岳城が築かれ、それが始まりと伝えられる。 城は一ノ岳、ニノ岳と2つの岳を巻き込み要塞化され、香春岳の一ノ岳東北に砦の館が指揮砦となり城主が居たとされる。かなり掘削され縄張りも不明な部分は多い。初めて城として築城されたのは天慶2年(939年)であった。 西海で平将門が下総に反したことを受け、藤原純友が将門に即応して翌年に九州に反旗を翻した。大宰府攻撃の基地として香春岳城が築かれ、それが始まりと伝えられる。 その後約200年もの間、人の住むところでなくなりもはや廃墟と化したが、一説によると保元2年(1157年)、平清盛が大宰府大弐となり鎮西下向の際、一族の越中次郎兵衛平盛次に命じてこれを改築させたようだ。 その後、宇都宮信房が治承2年(1178年)に豊前国の守護職となり威厳を保つために城を増築した。争奪戦が止むことはなく、大友氏と大内氏、毛利氏と大友氏、高橋氏と小早川氏など、つねに香春岳城は戦の火を浴びていた。
(城郭構造) 城郭構造(クリックで表示) 城郭構造城郭構造城郭の範囲は上段のとおり、3つの岳を含めたものと考えられているが、一ノ岳の保存状況はひどく、石灰岩の採掘によりほとんどが消滅している。辛うじて二ノ岳と三ノ岳はその遺構が確認できる。 城郭の範囲は上段のとおり、2つの岳を含めたものと考えられているが、一ノ岳の保存状況はひどく、石灰岩の採掘によりほとんどが消滅している。辛うじて二ノ岳はその遺構が確認できる。 二ノ岳を見るに、一ノ岳と同じく石灰岩のため削平による郭や切岸を作り出せない。かわりに石垣を積んで郭を築き、露出する岩山の間に石を積み並べ長い石塁を設けている。また、北斜面には堀切がある。 土塁側面には石積みが施しており、土塁の西側には24本以上の竪堀からなる畝状竪堀群が確認できる。地元の人々はこれを「タゴ土塁(間谷土塁)」と言っていた。 コメント |
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