額田城 のバックアップの現在との差分(No.1)

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*現実の城情報 [#information]
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鎌倉時代から戦国時代を通じて額田氏の居城となった、茨城県北では最大級の巨大城郭。
額田氏には3つの系統があり、建長年間(1249~1256年)に常陸源氏の名門である佐竹氏の5代当主・義重の次男の義直が分家して佐竹系額田氏が成立し、額田城を築いて10代約170年の居城とした。
額田城は肥沃な額田郷を流れる久慈川の右岸、標高29メートルの台地上に築かれ、台地の南縁に沿って曲輪が展開し、南側には有ヶ池が天然の水掘となった。
主郭部は堀や土塁で区切られた本丸・二の丸・三の丸・阿弥陀寺の曲輪からなり、特に本丸と二の丸の間の空堀は幅21メートル、深さ9メートルという巨大なもので、また土塁は蛇行しながら複雑に絡み合い、横矢掛けが要所に設けられた。
これらの主郭部を取り巻くように長大な土塁が囲い込んで外郭を形成し、内部には城下町が広がる総構として機能していた。

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室町時代中期になると佐竹本家と佐竹庶家の筆頭である山入家の約百年間に渡る内乱、山入の乱が起こり、佐竹系額田氏の10代当主・義亮は山入家に与し佐竹本家に対抗した。
応永23年(1416年)からは、関東公方足利持氏と前関東管領上杉禅秀が対立した上杉禅秀の乱も絡み、義亮は上杉禅秀に与し佐竹本家の12代当主・義人と持氏と対立、額田城で籠城戦を展開した。
上杉禅秀の乱の終結後も義人と持氏は額田城を攻撃し続け、応永30年(1423年)に額田城は落城し、佐竹系額田氏は滅亡した。
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義人は佐竹四天王の一つである小野崎氏の通重を額田城主とし、小野崎系額田氏が成立した。
しかし通重には子がいなかったため、江戸通房の子・通栄を養子に迎えて跡を継がせ、以後額田城は江戸系額田氏の居城となった。
天正16年(1588年)には、江戸氏の居城である[[馬場城]]で重臣の神生右衛門大夫が主家に反発した神生の乱が起こり、右衛門大夫は馬場城を追われて額田城に逃げ込み、当時の額田城主・額田照通は右衛門大夫を擁護した。
そのため翌年になって江戸氏は額田城に軍勢を送り、これに佐竹義重も加わって額田城を攻撃した。
照通は伊達政宗と結んで佐竹・江戸両軍に対抗したものの支え切れず、右衛門大夫は結城氏の[[結城城]]へと逃れ、照通は佐竹氏・江戸氏と和睦し佐竹氏に臣従した。
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天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐後、秀吉から所領を安堵された佐竹義宣は常陸の統一に着手し、江戸氏・大掾氏を滅ぼし、南方三十三館仕置によって常陸の国人衆を次々と謀殺していった。
義宣は額田照通にも謀反の疑いがあるとして同年10月に額田城を攻撃したが、照通の頑強な抵抗によって額田城は容易には攻略できなかった。
そこで義宣は石田三成を通じて照通に降伏を勧告したが、照通がこれを拒絶したため額田城を総攻撃し、翌天正19年(1591年)2月23日に額田城は落城した。
照通は伊達政宗を頼って逃れ、額田城は廃城となった。のちに額田氏は水戸徳川氏に600石で仕えている。

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|所在地|茨城県那珂市額田|
|現存状態|土塁、堀など|
|城郭構造|平山城|

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