霊山城 のバックアップの現在との差分(No.3)
現実の城情報霊山城(りょうぜんじょう)は福島県伊達市(陸奥国伊達郡)にあった、南北朝時代に南朝方の本拠地となった城。 これは、陸奥国府が信夫郡にあったと考えられることや、当時東北南朝の主力であった伊達氏や田村庄司一族、白河結城氏などとの連携がとりやすいなどの理由があげられ、霊山城はこの時に築かれたとされる。 これは、陸奥国府が信夫郡にあったと考えられることや、当時東北南朝の主力であった伊達氏や田村庄司一族、白河結城氏などとの連携がとりやすいなどの理由があげられ、霊山城はこの時に築かれたとされる。山頂にある主要伽藍が城の施設として利用され、主要仏殿となる場所が東西約50メートル、南北約55メートルの堀と土塁によって囲まれた。 続きをクリックで表示 しかし、年々北朝方の圧力は強まり、白河結城氏も北朝方に転じるなど東北南朝勢力の後退を食い止めることはできず、 貞和元年(1345年)石塔義房にかわり畠山氏国と吉良貞家が陸奥に下向すると南朝拠点への攻勢が強まり、翌年周辺の南朝方拠点とあわせ落城したとされている。 しかし、年々北朝方の圧力は強まり、白河結城氏も北朝方に転じるなど東北南朝勢力の後退を食い止めることはできず、貞和元年(1345年)に石塔義房にかわり畠山氏国と吉良貞家が陸奥に下向すると南朝拠点への攻勢が強まり、翌年周辺の南朝方拠点とあわせ落城したとされている。 霊山城の遺構は何度か発掘調査が行われており、昭和55年(1980年)の調査では建物の礎石などとともに南北朝~室町期に使われていた宋銭等などが発掘された。 現在では本丸であったとされる山頂付近の平場の一角に霊山城の碑が立っている。 現在では本丸であったとされる山頂付近の平場の一角に霊山城の碑が立っており、最頂部には三間堂や六角堂などの礎石建物跡が見られる。山上には多数の平場や礎石建物跡が確認され、その一部は現在も見ることができる。東側の斜面は雛壇状に削平された寺屋敷遺構群があり、現在でも30以上の平場が確認される。
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