霊山城 のバックアップの現在との差分(No.1)

  • 追加された行はこの色です。
  • 削除された行はこの色です。
*現実の城情報 [#information]

//編集前に[[テンプレート/城娘]]の「現実の城情報」をご確認ください。(このコメントは必ず残してください。他のコメントは不要なら削除していいです)


霊山城(りょうぜんじょう)は福島県伊達市(陸奥国伊達郡)にあった城。
現在の宮城県境付近にある標高825mの霊山山頂付近に築かれた山城である。山頂に存在した天台宗寺院である霊山寺を利用したものと考えられている。
霊山城(りょうぜんじょう)は福島県伊達市(陸奥国伊達郡)にあった、南北朝時代に南朝方の本拠地となった城。
現在の宮城県境付近にある標高825mの霊山山頂一帯に築かれた山城である。山頂に存在した天台宗寺院である霊山寺を利用したものと考えられている。
鎌倉幕府が滅び建武の新政が始まると、陸奥には後醍醐天皇の子である義良親王(後の後村上天皇)が北畠顕家を伴い下向し[[多賀城]]に入り統治を担った。
間もなく南北朝の対立が始まり、東北地方でも北朝方の石塔義房が下向してくるなど北朝の圧力が強まると、鎮守府将軍に任ぜられていた北畠顕家は国衙機能を霊山に移した。
これは、陸奥国府が信夫郡にあったと考えられることや、当時東北南朝の主力であった伊達氏や田村庄司一族、白河結城氏などとの連携がとりやすいなどの理由があげられ、霊山城はこの時に築かれたとされる。
これは、陸奥国府が信夫郡にあったと考えられることや、当時東北南朝の主力であった伊達氏や田村庄司一族、白河結城氏などとの連携がとりやすいなどの理由があげられ、霊山城はこの時に築かれたとされる。山頂にある主要伽藍が城の施設として利用され、主要仏殿となる場所が東西約50メートル、南北約55メートルの堀と土塁によって囲まれた。
#br
#style(class=submenuheader){{{
&color(White,Maroon){続きをクリックで表示};
}}}
#style(class=submenu){{{

しかし、年々北朝方の圧力は強まり、白河結城氏も北朝方に転じるなど東北南朝勢力の後退を食い止めることはできず、
貞和元(1345)年石塔義房にかわり畠山氏国と吉良貞家が陸奥に下向すると南朝拠点への攻勢が強まり、翌年周辺の南朝方拠点とあわせ落城したとされている。
霊山城の遺構は何度か発掘調査が行われており、昭和55(1980)年の調査では建物の礎石などとともに南北朝~室町期に使われていた宋銭等などが発掘された。
現在では本丸であったとされる山頂付近の平場の一角に霊山城の碑が立っている。
しかし、年々北朝方の圧力は強まり、白河結城氏も北朝方に転じるなど東北南朝勢力の後退を食い止めることはできず、貞和元年(1345年)に石塔義房にかわり畠山氏国と吉良貞家が陸奥に下向すると南朝拠点への攻勢が強まり、翌年周辺の南朝方拠点とあわせ落城したとされている。
#br
霊山城の遺構は何度か発掘調査が行われており、昭和55年(1980年)の調査では建物の礎石などとともに南北朝~室町期に使われていた宋銭等などが発掘された。
現在では本丸であったとされる山頂付近の平場の一角に霊山城の碑が立っており、最頂部には三間堂や六角堂などの礎石建物跡が見られる。山上には多数の平場や礎石建物跡が確認され、その一部は現在も見ることができる。東側の斜面は雛壇状に削平された寺屋敷遺構群があり、現在でも30以上の平場が確認される。

}}}

|BGCOLOR(#ddd):100|200|c
|所在地|福島県伊達市霊山町石田字霊山|
|現存状態|特に遺構なし|
|城郭構造|山城|
*コメント [#comment]
#pcomment(,reply,10,)



ホーム リロード   新規 下位ページ作成 コピー 編集 添付 一覧 最終更新 差分 バックアップ 検索   凍結 名前変更     最終更新のRSS