越中守山城 のバックアップの現在との差分(No.1)
現実の城情報松倉城・増山城と並ぶ越中三大山城の一つ。 南北朝期に桃井氏によって築かれ、のちに越中守護斯波義将の居城となる。 戦国時代には神保氏張の居城となるが、天正4年に上杉謙信に攻められ落城をする。 天正6年の謙信の没後、越中を制圧した佐々成政に従い守山城主に返り咲く。 天正13年、佐々成政が豊臣秀吉に降伏すると守山城は前田利家の嫡男利長の居城となり、慶長2年に利長が居城を富山城へと移すと、その後は前田長種が城代となるが程なく廃城となった。 松倉城・増山城と並ぶ越中三大山城の一つ。砺波平野を一望する二上山頂に築かれ、南麓を流れる小矢部川左岸には北陸道浜街道が通る交通の要衝だった。 南北朝時代に桃井氏によって築かれた当時は「獅子頭城」と呼ばれ、のちに正平23年・応安元年(1368年)から天授5年・康暦元年(1379年)にかけて越中守護を務めた斯波義将の居城となる。 戦国時代には小矢部河口の放生津城を本拠とする越中守護代神保氏の重要拠点となったが、神保慶宗の代に越後の長尾為景の攻撃を受け、慶宗は守山城に籠城するも敗れ自害した。その後神保氏は神保長職によって再興されて富山城を本拠とし、守山城には一族の神保職広が在城したが永禄3年(1560年)の上杉謙信の越中侵攻の際に自落した。 永禄5年(1562年)頃からは神保氏張の居城となるが、天正4年(1576年)に謙信に攻められ落城する。天正6年(1578年)の謙信の没後、氏張は越中を制圧した佐々成政に従い守山城主に返り咲く。 天正13年(1585年)、成政が豊臣秀吉に降伏すると守山城は前田利家の嫡男利長の居城となり、慶長2年(1597年)に利長が居城を富山城へと移すと、その後は前田長種が城代となるが程なく廃城となった。 }}} #style(class=submenu){{{ }}}
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