築城の名手・藤堂高虎によって築かれ、奥熊野支配の拠点となった織豊系城郭。 天正13年(1585年)、豊臣秀吉による紀州征伐によて紀伊が平定され、秀吉の弟・秀長が紀伊を治めることとなった。 しかし在地勢力の抵抗は根強く紀伊の支配は難航し、翌年には奥熊野で北山一揆が発生した。 秀長は自ら出陣してこれを鎮圧し、藤堂高虎に命じて赤木城を築かせ、ここを拠点に奥熊野の支配を進めた。 そのなかで一揆勢の処罰も行われ、赤木城の西方に位置する田平子峠で斬首されたことから、「行ったら戻らぬ赤木の城へ、見捨てどころは田平子じゃ」と現地の村人が語り継ぐこととなる。
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当時の畿内では城郭や寺社の建設、船舶の建造が盛んに行われていたため、赤木城は良質な木材を産出する奥熊野を押さえる城として重視された。 この地では慶長19年(1614年)に新宮城主浅野忠吉が大坂冬の陣に出陣した隙を突いて再び北山一揆が発生したが、浅野勢は赤木城も拠点としてこれを鎮圧し、一揆勢は田平子峠で斬首された。 その後の赤木城の動向は不明だが、城が使われた形跡は無く廃城になったと思われる。
赤木城は曲輪に石垣が配され、枡形虎口も備える、天正期の織豊系城郭に特徴的な構造となっている。 また江戸時代に改修が行われていないことから築城当時の姿がそのまま残っており、織豊系城郭の形態をよく伝える城であるとともに、藤堂高虎が初期に築いた城としても注目されている。
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