擂鉢山の山頂に建っていたとされる豊前長野城だが、築城年数がはっきりとしていない。 少なくとも南北朝時代に築かれたのではなかろうかと推測されている。 長野城の城主は同名長野氏であり、どちらも穀倉地帯「長野平野」が由来となっているようだ。 本城・詰城として機能していた見方が強く、平時は上長野にある角屋敷を里城としていた模様。 里城は福岡県、大分県、山口県に多く見られる国人衆の館を指す。宅所とも言った。
長野城の特徴は何といっても250本を超える竪堀で構成されている畝状竪堀群だ。 畑の畝のように竪堀が巡らされ、竪堀の頭には横堀が設けられている。 ところどころ上下二段構えになっており、山城特有の堅牢さが窺い知れる。 同様の仕様は、同じく長野氏の所有であった等覚寺城にも見られる。
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畝状竪堀群の役割 畝状空堀群とも阻塞(そさい)とも言われており、弓の的を絞りやすくするための工夫であった。 この工夫は弓だけにとどまらず投石・鉄砲の際にも効果を発揮する。 敵の横移動を縦に制限できるため、城を守る側としては好都合の仕掛けである。 著名な城で言えば浅井氏の居城小谷城もこの畝状空堀群を採用していたことで有名である。 ただ、規模で言えば長野城が我が国最大の畝状竪堀群を持っていた。
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