西山城 のバックアップの現在との差分(No.2)

城情報 Edit

現実の城情報 Edit


別名:大友上野館,上原館,御屋敷

大友義鑑の死の原因となった「二階崩れの変」の舞台となった場所。(この時宗麟は浜脇館にいる)

城というよりは館。大友7代氏泰の時に古国府から館を移した。上野丘高校北東にある小高い丘に付近にあった。小さな天満宮の敷地内に碑が立っている。

地上からではいまいちわかりにくいが、上空から見るとかつて館があった範囲が窺える。

大友氏館(上野館)は大分川の西岸にある標高20m余りの台地の上に築かれていた。

近年北方の顕徳町に大友氏館が築かれていたことが発掘調査によって明らかとなったが、この上原館はそれ以前より大友氏の中心的な館であったと考えられてきた。

実質的な防衛面は、近隣の城となっていた。

大友義鑑の死の原因となった「二階崩れの変」の舞台となった場所である(この時宗麟は浜脇館にいた)。

城というよりは館に傾向し、大友7代氏泰の時に古国府から館を移した。上野丘高校北東にある小高い丘に付近にあった。小さな天満宮の敷地内に碑が立っている。

地上からではいまいちわかりにくいが、上空から見るとかつて館があった範囲が窺える。大友氏館(上野館)は大分川の西岸にある標高20m余りの台地の上に築かれていた。

近年北方の顕徳町に大友氏館が築かれていたことが発掘調査によって明らかとなったが、この上原館はそれ以前より大友氏の中心的な館であったと考えられてきた。実質的な防衛面は、近隣の城となっていた。

上原館は大半が宅地になっているが、天満宮が鎮座している所が南辺の高土塁で、ここに石碑と案内板が設置されている。

1530年大友氏第20代当主大友義鑑(よしあき)の嫡男第21代当主大友宗麟がここで産れる。

隣接の大友館(現在発掘作業中)豊後守護職である大友氏の居館。天正14年(1586年)の島津侵攻時に焼失

所在地大分県大分市上野丘西10
現存状態土塁
城郭構造平城

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