かつて栄華を誇っていた長安は、唐末の戦乱で大規模に縮小し(韓建新城)、以降は今日に至るまで一地方都市となっている。 韓建新城は長安の皇城を城塞として強化したもので、以降元朝末まで京兆府、大安府、為安西路、奉元路と名を変えて使われた。 そうして明代初期の1369年、明の徐達が奉元路一帯を平定すると、西の都という意味で西安府と改称し、以降この地を西安と呼ぶようになった。 西安府は明朝の間に修築が繰り返され、以降の時代もこの時代に作られたものが基本的に使用され、そうして現代まで残っている。
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西安府としての主な出来事は2つある。 一つは明末期にあたる1644年の李自成の乱の際に、李自成がここを首都として順を建国し、明朝を滅ぼし、中国内地18省を支配した。 なお、李自成は同年3月に北京を攻略して以降は北京に遷都し、順もその40日後には北からやってきた清朝に大敗を喫して翌年には滅びた。 もう一つは清朝末期の義和団事件のとき、西洋列強に手痛い仕打ちを受けた西太后と光緒帝が北京からここへ1年近く避難していた。
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