若林城 のバックアップの現在との差分(No.1)
現実の城情報陸奥仙台藩主・伊達政宗が晩年を過ごし政務を執った、政宗一代限りの居城。 続きをクリックで表示 一国一城令が発布されていたこともあって対外的には屋敷と称していたが、内実は城であることを幕府も承知しており、対内的には若林城と称していたという。 城域は東西約420メートル、南北約350メートルで外郭は堀と土塁で囲まれており、現存する土塁は高さ約5メートル、現存する堀は幅約25メートル、深さ約1メートルとなっている。政宗の重臣である伊達成実が記した『政宗記』には、土塁の高さが二丈(約6メートル)、堀の幅は三十間(約60メートル)とある。 土塁は北西隅部、西辺南端部、東辺北端部、南辺中央部の四ヶ所に張出が配置され、防御性を高めている。出入口は南辺を除く三方の中央部に設けられ、そのうち街道に向かう西側が大手と考えられ、西側の出入口から入ると正面に鈎型に折れる高さ約2メートルの土塁が置かれ内枡形を形成している。 城下には仙台とは別に家臣の屋敷を建て、町人を住まわせ、若林町奉行も置くなど、仙台城から独立した城下町が形成された。 城下町は奥州街道沿いに荒町から河原町まで町割が行われ、河原町から東に向かって若林城まで至る道が通っていた。 以後政宗は若林城に常在して政務を執り、仙台城には年始などに行わる特別な行事の際にしか登城しなかった。 寛永13年(1636年)、政宗は病をおして江戸へ向かう際、「館の西南に杉を植え、城の周りの堀一重を残してそのほかは田畑とせよ」と命じたといい、同年に江戸で病没した。
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