若林城 のバックアップ差分(No.1)

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*現実の城情報 [#information]

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陸奥仙台藩主・伊達政宗が晩年を過ごし政務を執った、政宗一代限りの居城。
[[仙台城]]を居城としていた政宗は広瀬川対岸の花壇の地に屋敷を築き、次第にそこで過ごすことが多くなっていった。
寛永4年(1627年)には仙台城下東南に「仙台屋敷構」の普請を幕府に願い出て、老中・土井利勝らは「心のままに普請あるべし」と許可を出し、若林城の築城が始まった。
若林城の地には南小泉遺跡が広がり、古墳時代に集落が形成され仙台地方の中心となっており、戦国時代には国分氏が居城を構えていたという。
一帯は湿地や深田が多く、大雨などもあって築城工事は難航したが、寛永5年(1628年)に完成し政宗が居城を移した。

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一国一城令が発布されていたこともあって対外的には屋敷と称していたが、内実は城であることを幕府も承知しており、対内的には若林城と称していたという。
若林城は広瀬川北岸に広がる低い自然堤防上に立地し、仙台城と奥州街道に向いた西側を大手とし、六郷堀によって広瀬川の水が引き込まれ水堀を巡らせていた。
城下には仙台とは別に家臣の屋敷を建て、町人を住まわせ、若林町奉行も置くなど、仙台城から独立した城下町が形成された。
城下町は奥州街道沿いに荒町から河原町まで町割が行われ、河原町から東に向かって若林城まで至る道が通っていた。
以後政宗は若林城に常在して政務を執り、仙台城には年始などに行わる特別な行事の際にしか登城しなかった。
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寛永13年(1636年)、政宗は病をおして江戸へ向かう際、「館の西南に杉を植え、城の周りの堀一重を残してそのほかは田畑とせよ」と命じたといい、同年に江戸で病没した。
政宗の跡を継いだ忠宗は若林城を廃城として城の建物を仙台城の二の丸に移築し、家臣も若林の屋敷を引き払い、若林城は「若林古城」「小泉古城」などと呼ばれるようになった。
その後城跡には若林薬園が置かれて薬草が栽培され、明治時代には14代藩主・伊達宗基の所有地となって桑畑が開かれたのち、明治11年(1878年)に警視庁が買い上げた。
警視庁は若林城跡に宮城集治監を置き、明治36年(1903年)には宮城監獄となり、大正11年(1922年)に宮城刑務所となって現在に至っている。
刑務所の敷地内には政宗が文禄の役の際に持ち帰り、仙台城から植え替えたと伝えられる朝鮮ウメがあり、日本最大級の臥龍梅として国の天然記念物に指定されている。

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|所在地|宮城県仙台市若林区古城|
|現存状態|移築門、土塁、堀など|
|城郭構造|単郭式平城|

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