芥川山城 のバックアップ差分(No.3)

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『瓦林政頼記』『不問物語』『那智籠』などに、永正13年(1516年)に細川高国が築かせたと記される、摂津最大の山城。
天文22年(1553年)には三好長慶が入城し、永禄3年(1560年)に[[飯盛山城]]に移るまでの居城とした。
この時代の長慶の政権を「芥川政権」、芥川山城を「畿内の政庁」と評することもあり、長慶は旧城主の細川氏に代わって東瀬戸内諸国や京を支配する存在であることを誇示した。
芥川山城には山上に家臣の居住地が存在し、山麓には屋敷跡が確認されていない。これは飯盛山城と同じく、城と城下町がセットにならない三好氏特有の構造として注目される。
永禄11年(1568年)の織田信長による摂津侵攻で芥川山城は落城し、和田惟政が入ったが翌年には[[高槻城]]へと移り、やがて芥川山城は廃城になったとされる。
「日本の副王」と称された三好長慶の居城で、「畿内の政庁」として機能した摂津最大の山城。
『瓦林政頼記』『不問物語』『那智籠』などに、永正13年(1516年)に細川京兆家の高国が築かせたと記され、摂津守護だった高国や守護代の薬師寺氏は[[茨木城]]を摂津の守護所としていたため、芥川山城は高国の被官の能勢氏が預かっていた。
大永6年(1526年)、阿波細川氏の晴元が高国に対し兵を挙げ、高国は敗れ能勢氏も没落し、晴元は天文2年(1533年)に芥川山城に入った。晴元は入京を目指していたものの、一向宗や法華宗の門徒の勢力が強かったために京に入れず、天文5年(1535年)にようやく京に入り管領となった。
この間の芥川山城は改修が行われて守護所として機能し、晴元は入京後も畿内における軍事的緊張のなかで度々芥川山城に入っている。
やがて晴元の家臣の三好長慶が晴元や室町幕府の将軍足利義輝を京から追って畿内を支配し、天文22年(1553年)には芥川山城に入って畿内支配の拠点とした。この時代の長慶の政権を「芥川政権」、芥川山城を「畿内の政庁」と評することもあり、長慶は旧城主の細川氏に代わって東瀬戸内諸国や京を支配する存在であることを誇示した。

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長慶は永禄3年(1560年)に[[飯盛山城]]に居城を移し、芥川山城には嫡男の義興を入れた。しかし義興は3年後に22歳で急死し、長慶もその翌年に死去した。
永禄11年(1568年)には織田信長が足利義昭を擁して[[岐阜城]]から出陣し、芥川山城を攻撃した。城を守っていた三好長逸は阿波に逃れ、信長は義昭とともに芥川山城に入城して松永久秀や京の公家・文化人らと対面した後に上洛した。
信長としては上洛前に畿内の動向を見極める必要があり、細川京兆家や三好長慶が拠点としていた芥川山城を重要視していたことがうかがえる。
その後芥川山城には義昭の家臣の和田惟政が入ったが、翌年に[[高槻城]]に移ったため芥川山城には惟政の重臣の高山友照が置かれた。元亀2年(1571年)に惟政は白井河原の戦いで討死し、嫡男の惟長が高槻城主となったが、翌年に芥川山城の友照・重友父子が惟長を追放して高槻城主となり、この時に芥川山城は廃城になったとされる。
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芥川山城は北摂山地と大阪平野が接する丘陵地の一角、三好山に築かれた。北と西は芥川が流れ、周囲は峡谷になっているなど天然の要害といった地形で、急峻な山全体を利用した典型的な山城だった。
城域は大きく分けて3つの区画で構成され、西端の最高所に位置する主郭を中心とした曲輪群と、谷を挟んで東側に位置する出丸の曲輪群、さらに東側に堀切を隔てて築かれた東方曲輪群に分かれる。
主郭では発掘調査で礎石建物があったことが判明しており、城主が山上に居住していたことがわかる。この礎石建物では火災の痕跡があり、『多聞院日記』に記された弘治2年(1556年)の「芥田川ノ城焼失」のことと思われる。また松永久秀らの「陣所」が焼失したともあり、城内やその周辺には有力被官などが居住する施設もあったと考えられる。
主郭と出丸曲輪群との間の谷筋には高石垣が構えられ、この谷筋が大手道と考えられることから、石垣は大手正面に構えられたものとされる。出丸の南端にも巨石を用いた石垣が築かれており、これらの遺構は織田信長による[[安土城]]築城以前の礎石建物・石垣として注目されている。
東端の曲輪群は土塁囲みの曲輪が中心で、斜面は竪土塁によって強力に遮断されている。これは芥川山城より標高の高い帯仕山が地続きになっているため、その弱点を補うためだと考えられる。実際、三好長慶は帯仕山から芥川山城を攻め落としており、陣城の遺構も残っている。
芥川山城には上記のように山上に家臣の居住地が存在し、山麓には屋敷跡が確認されていないのが特徴となっている。また城の周囲には町も無く、京へ至る西国街道の芥川宿とは約3.5キロメートルも離れている。芥川山城は守護所ではあるが、他国の守護が城下町のようなものを形成したのとは異なる形態であり、これは飯盛山城と同じく城と城下町がセットにならない三好氏特有の構造として注目される。

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|所在地|大阪府高槻市原|
|現存状態|堀切、石垣、土塁など|
|城郭構造|連郭式山城|
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