播磨守護赤松氏の居城で、標高371メートルの城山に築かれ、60以上の曲輪で構成された播磨国最大の山城。 江戸時代に作成された「播備作城記」には文明元年(1469年)に築城されたとあるが、発掘調査の結果16世紀前半の築城とする説が有力となり、また山城が大規模なものとなるのは16世紀後半であることが明らかになった。 天正5年(1577年)、赤松則房は羽柴秀吉に降伏し、天正8年(1580年)に秀吉が播磨で破城を命じたことで廃城となった。 置塩城には中世城郭でよく見られる横堀や堀切、畝状竪堀はほぼ見られず軍事的要素は乏しい。城内には主郭を中心に格式高い屋敷が立ち並び、城内を直線的な幹線道が貫く守護の城下のような都市構造を持ち、守護の居住空間としての特徴が見られる。 山上に中心的な居住空間を持つ例は小谷城や観音寺城でも見られ、置塩城は畿内近国の本拠地のあり方を考える上で重要な城と位置づけられる。
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