伊達政宗生誕の地として知られる戦国時代後半の伊達氏の本拠地で、江戸時代には米沢藩上杉氏30万石の居城となった城。 鎌倉幕府の政所別当・大江広元の次男・時広が出羽置賜郡長井郷の地頭となり、長井氏を称して築いた単郭型方形居館が始まりとされ、室町時代前半には置賜郡に侵攻した伊達氏が支配した。 伊達稙宗・晴宗父子が対立し伊達氏を二分した天文の乱が終息すると、晴宗は居城を桑折西山城から米沢城に移した。 以後伊達政宗が黒川城に居城を移すまでの約40年間にわたって伊達氏の本拠地となり改修が進められ、豊臣秀吉による奥州仕置で政宗に代わって蒲生氏郷が会津に入ると、米沢城には重臣の蒲生郷安が入り、郷安もまた改修を行った。
続きをクリックで表示
氏郷の死後に上杉景勝が会津に入り直江兼続を米沢城主としたが、兼続は景勝の側近として会津若松城にいることが多かったため、米沢城にはあまり手が加えられなかった。 関ヶ原の戦い後、景勝は会津120万石から米沢30万石に減封されて米沢城を居城とし、この時代に米沢城は大改修が行われた。 景勝が入った時は堀を一重に巡らせただけの簡素な造りだったのが、本丸を中心に二の丸・三の丸と曲輪が同心円状に取り囲んでいく輪郭式の縄張となり、神指城と同じく二重方形区画の上杉氏に特徴的な城となった。 以後、米沢城は上杉氏歴代の居城となり明治維新まで続いたが、明治4年(1871年)に廃城となった。 城主としては、「為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり」という歌を残した名君・上杉鷹山が著名である。
ゲーム内では第三回名城番付で直江兼続兜によって名を挙げられており、上杉氏の城としての側面が強調されている。
最新の10件を表示しています。 コメントページを参照 画像を非表示
最新の10件を表示しています。 コメントページを参照 画像を非表示