応仁・文明年間(1467年~1487年)頃、山名宗之が飯山に砦を築いたのが始まりとされる。 天正19年(1591年)、吉川広家が月山富田城に代わる居城として、湊山に新城を築き始めると飯山は出丸として利用された。 四重天守もこの頃建てられたが、中村一忠が四重五階の望楼型天守を築くと、四重櫓として利用されるようになったという。 外堀には海水を引き入れていたために水城としての側面も持つ。 一忠が若年にして急死すると、代わって加藤貞泰が入るも大洲藩に転封となったが、池田氏の家老・荒尾氏が城代となると明治維新まで続いた。
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平成29年(2017年)4月には、江戸時代に描かれた『米子城絵図』を裏付ける登り石垣が確認された。 登り石垣は文禄・慶長の役の際に朝鮮半島で築かれた倭城では多くみられるが、日本では彦根城、洲本城、伊予松山城などしかなく6例目の発見となった。
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