箕作城 のバックアップの現在との差分(No.1)
現実の城情報箕作城(みつくりじょう)は観音寺城の支城の1つであり、織田信長と六角義賢の戦いにおける最大の激戦地となった山城である。箕作山城ということもある。 観音寺城の約1km南東にある山塊に築かれ、山頂に主郭が置かれたことはわかっているが、それ以外についてははっきりしていない。 観音寺城の約1km南東にある山塊のうち北側の峰に築かれ、頂上部に主郭が置かれたことはわかっているが、それ以外についてははっきりしていない。 応仁の乱において、六角氏内でも近江守護職を巡り西軍側の亀寿丸と、東軍側についた六角政堯とで分裂が起こり、六角政堯が観音寺城に対抗するために当地に城を築いたのが最初とされている。 観音寺城は政庁機能が重視された側面が強く、明応の政変など幕府内の対立が激化し、また六角氏自身も内部での抗争や、北の京極氏やそれにとってかわった浅井氏などとの対立が続く中で守備面の不安が強くなった。 そのため、周囲に支城を張り巡らせることで防御を強化し、当城も天文年間の1550年頃に改修が行われ、和田山城?などとならぶ主要な支城として整備が行われた。 そのため、周囲に支城を張り巡らせることで防御の強化をはかり、当城も天文年間の1550年頃に改修が行われ、和田山城?などとならぶ主要な支城として整備が行われた。 続きをクリックで表示 永禄11年(1568年)足利義昭を奉じた織田信長が上洛を図ると、六角氏当主であった六角義賢に協力を求めたが、義賢は協力を拒み、三好三人衆と結びこれに対抗した。 これは、永禄期の六角氏は織田信長と同盟した浅井長政におされるなど苦境にあったこともあったことが大きな要因であると考えられる。 六角氏方は織田氏やそれに同盟する浅井氏など諸勢力の進出に備え、和田山城?など、主要な支城に兵をおき待ち構えていたが、織田氏側は散らばった支城には必要な兵力だけをおき、主力はそのまま当城に殺到した。 六角氏側の狙いはかわされたものの、支城とはいえれっきとした堅固な山城で、吉田出雲守をトップに守備兵3000と十分な兵力が配されていたこともあり箕作城守備隊は激しく抵抗、結局織田方の攻撃は頓挫し日が暮れた。 この状況に対し木下秀吉はその日の晩に夜襲を敢行し、これが完全な奇襲となったことで守備隊も抵抗しきれず、夜明け前には落城してしまった。 観音寺城の目と鼻の先である箕作城落城の衝撃は大きく、和田山城?の守備隊は逃亡、六角義賢も観音寺城では戦えないと甲賀へ落ち延び、箕作城落城によって観音寺城の戦いは終結し、近江源氏の名門六角氏はそのまま没落した。 六角氏敗北をうけて、三好三人衆も正面きってぶつかることはできないと京都から逃亡し、ついに織田信長の上洛を阻む者はなくなった。 永禄11年(1568年)足利義昭を奉じた織田信長が上洛を図ると、南近江最大勢力である六角氏に協力を求めたが、当主六角義賢は協力を拒むとともに、三好三人衆と結びこれに対抗した。 これは、永禄期の六角氏は織田信長と同盟した浅井長政と対立関係にあったことが大きな要因であると考えられる。 六角氏方は織田氏やそれに同盟する浅井氏など諸勢力の進出に備え、和田山城?など、主要な支城に兵をおき待ち構えていたが、織田氏側は散らばった支城には必要な兵力だけをおき、主力はそのまま観音寺城に隣接する当城に殺到した。 支城網で食い止めるという六角氏側の狙いは破綻したものの、箕作城は支城とはいえれっきとした山城で、吉田出雲守をトップに守備兵3000と十分な兵力が配されていたこともあり守備隊は激しく抵抗、結局織田方の攻撃は頓挫し日が暮れた。 この状況に対し木下秀吉はその日の晩に夜襲を敢行し、これが完全な奇襲となったことで守備隊が混乱、吉田出雲守も戦死し、昼間の奮戦から一転夜明け前には落城してしまった。 観音寺城の目と鼻の先である箕作城落城の衝撃は大きく、和田山城?の守備隊は逃亡、六角義賢も観音寺城では戦えないと甲賀へ落ち延びたことで観音寺城の戦いは終結し、近江源氏の名門六角氏はそのまま没落した。 六角氏敗北をうけて、三好三人衆も正面きってぶつかることはできないと京都から後退し、ついに織田信長の上洛を阻む者はなくなった。 一方、この戦いで織田方は1500人前後の戦死者を出しており、昼間の守備隊の抵抗がいかに激しかったかを如実に示している。 箕作城は観音寺城の戦い終結とともに廃城となったと見られ、城跡には山頂付近に石垣が確認できる他は目立った遺構は確認できない。
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