神西城 のバックアップの現在との差分(No.2)
現実の城情報神西城(じんざいじょう)は神西湖南岸に向かってせりだした丘陵地帯の中の標高101メートルの高倉山に築かれた山城で、尼子十旗の一つである。一般に使われる神西城は俗称で正式には龍王山竹生城であるという。 続きをクリックで表示 室町期には出雲守護京極氏に従っていた神西氏であるが、尼子氏がそれにとってかわると尼子氏に従うようになっていった。 神西城は石見との国境を守る城となり、神西氏も尼子家中で一定の地位を得ることとなるが、尼子氏が衰退すると神西元通は永禄6年(1563年)毛利氏に降ったという。 しかし月山富田城の尼子方の中にも神西元通に比定される人物の名が見られ、この頃の神西元通に関する記録には若干の混乱が見られる。 いずれにせよ、神西城は毛利氏の出雲侵攻の中で落城もしくは開城となり、その後は特に史料では確認できないため早々に廃城になったのではないかと考えられる。 神西元通は毛利氏に降り伯耆末吉城主となったが、永禄12年(1569年)の尼子再興軍に参加、これが失敗に終わると山中幸盛らとともに京に上り、織田氏の傘下に入った。 そして播磨上月城の包囲戦において尼子勝久らとともに自害している。 そして播磨上月城の包囲戦において尼子勝久らとともに自害している。 城跡は主郭部分は公園となっているが遺構についてはあまり明確ではなく、それ以外は藪に埋もれてしまっているところが多い。
コメント |
Published by (C)DMMゲームズ
最新の10件を表示しています。 コメントページを参照 画像を非表示