南部氏中興の祖で盛岡藩の基礎を築いた南部信直の実父・石川高信の居城として知られ、大仏ヶ鼻城とも呼ばれる。 南北朝時代に曽我道性によって築かれたとされ、戦国時代になった南部氏が支配するようになった。 石川城には石川高信が入って津軽地方を統治し、本家である三戸南部氏の領国支配を支えた。 城は平川の西岸、比高約60メートルの尾開山に築かれ、主郭の北東斜面には腰曲輪を伴うニの郭、三の郭が階段状に配置され、北西に続く丘陵地帯には12の館が並び、石川城と合わせて「石川十三楯」と称される。
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津軽地方の中心的城郭として機能した石川城だったが、元亀2年(1571年)に大浦為信(のちの津軽為信)によって落城し、高信は自害したとされる。 高信を失った南部氏は津軽地方における影響力を急速に失い、為信の津軽制圧を許すこととなった。 以後石川城は津軽氏の支配下に置かれ、高岡城が築城されると廃城となった。
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