男山城 のバックアップ差分(No.1)

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*現実の城情報 [#information]

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男山城は、生駒山地の最北端にそびえる男山にあった城であり、同地にある石清水八幡宮と同一か、その一部にあたる。
男山は、[[平安京]]、河内国、摂津国を一望できる立地にあり、対岸の大山崎とともに交通・軍事の要地であった。
そのため、桓武天皇により平安京が造られるとここには狼煙台が設置され、また戦乱があると周辺は幾度となく戦場になった。
男山城としては、南北朝時代に後村上天皇が石清水八幡宮に置いた行宮がそう呼ばれたのが始まりで、後の山崎合戦の前後にも名前が散見される。
また、同地にある石清水八幡宮は日本三大八幡宮のひとつであり、加えて伊勢神宮と共に皇室の二所宗廟となっており、境内は織田信長が奉納した土塀により防備が固められている。

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男山城としては、特に「八幡の戦い」と「山崎合戦」の二つの戦いで名前が知られる。
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八幡の戦いは観応の擾乱に続いて正平7年/文和元年に行われた戦いで、室町幕府の内乱による隙をつき、2月20日に南朝方が初めて京都を奪還した戦いである。
これにより一時的に幕府は近江へと逃れたが、すぐに勢力を盛り返し、ひと月ほど後の3月15日に京都を再奪還した。
そのまま幕府方は、後村上天皇が構える石清水八幡宮の行宮、すなわち男山城を包囲した。
男山城においては兵糧攻めが展開され、2ヶ月ほどは耐えたが、南朝方で飢えにより離反が相次ぎ、とうとう5月11日に後村上天皇が場外へ脱出し、男山城は陥落した。
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山崎合戦は天正10年6月2日に明智光秀が起こした本能寺の変で織田信長が討たれた事に続く戦いで、主には対岸の大山崎において明智光秀と羽柴秀吉の間で行われた。
本能寺の変の報を[[備中高松城]]攻めの陣中で受けた秀吉は、急ぎ毛利氏との和睦を行ない、いわゆる中国大返しにより畿内に舞い戻ると、光秀との戦支度を進めた。
6月10日に秀吉接近の報を受けた光秀は、それまで男山城とその対岸の[[山崎城]]に布陣していた兵を[[勝竜寺城]]、淀古城へと退いて布陣しなおし、秀吉を迎え撃つ形となった。
しかし、秀吉との間には大きな兵力差があり、またその進軍速度に態勢を十分に整えられないまま合戦に突入、そして光秀はここで敗退、[[坂本城]]へ退く道中で落ち武者狩りに遭い討ち死にとなった。
その後秀吉は、イエズス会日本年報の中に「羽柴は甚だ堅固な城を二つ山崎及び都より三レグワの八幡に築いた」との記述があるように、山崎城と共に男山城も修築したとされる。

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|所在地|京都府八幡市|
|現存状態|石清水八幡宮|
|城郭構造|山城|
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