田丸城 のバックアップの現在との差分(No.6)

現実の城情報 Edit


延元元年(1336年)に北畠親房・顕信父子が南朝義軍の拠点として砦を築いたのが最初と言われており、伊勢神宮を抑える戦略的要衝として争奪戦が繰り広げられた。

延元元年(1336年)、後醍醐天皇を吉野に迎えるために伊勢に下った北畠親房・顕信父子が南朝義軍の拠点として玉丸山(標高51m)という丘陵地の突端部上に砦を築いたのが最初と言われており、この地は伊勢街道と熊野街道(世界遺産である熊野古道:伊勢路で、ここが出立の地となる)の分岐点という交通の要衝であったため、伊勢神宮を抑える戦略的要衝として争奪戦が繰り広げられた。(もちろん宿場町としても栄えており、現在も少しだが名残がある模様)


康永元年(1342年)、足利尊氏によって落城したが、室町時代には伊勢国司となった北畠氏の手によって再建される。

北畠氏が北勢(伊勢国北部)に拠点を移すと、北畠家の庶流で第5代北畠政郷の四男顕晴が田丸城に入り田丸氏を名乗った。


織田信長の伊勢侵攻後、城主の田丸直昌は城を明け渡して織田信長の次男・信雄に仕える。

その後北畠氏が北勢(伊勢国北部)に拠点を移すと、北畠家の庶流で第5代北畠政郷の四男顕晴が田丸城に入り田丸氏を名乗った。


織田信長の伊勢侵攻後、時の城主であった田丸直昌は宮川近くの岩出城(現在の玉城町岩出地区、跡地とされるであろう場所に岩出城開墾碑が建てられている)に移動し、田丸城を明け渡して織田信長の次男・信雄に仕える。

所在地三重県度会郡玉城町田丸
現存状態天守台、外堀、内堀、堀切、空堀、石垣、土塁、富士見門、奥書院
城郭構造平山城

コメント Edit

最新の10件を表示しています。 コメントページを参照 画像を非表示

  • 田丸城の記事きたあああ!待ってた -- 2016-12-03 (土) 20:30:03
    • 安土城が初の本格的な天守を築いたという表現も若干疑問なので書きました。まあ調査待ちだけど。 -- 2016-12-03 (土) 20:40:30
  • 史料上の研究と、遺構が残ってるかどうかは別問題だし、田丸城が安土城より前に天守を持ったというのはまだ最新の研究とは言い難いので、誤解しないでね。 -- 2016-12-04 (日) 11:22:59
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