玉縄城 のバックアップソース(No.7)
*現実の城情報 [#information]

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後北条氏の本城・[[小田原城]]の重要な支城で、「地黄八幡」として知られ北条五色備の黄備を率いた北条綱成が属する、後北条氏家臣団のなかでも特に大きな勢力を有した玉縄衆の本拠地。
文明年間(1469~1486年)初頭、鎌倉の北出入り口を抑えるため関東管領山内上杉氏が築城したとされ、「寛永諸家系図伝」の北条長氏(早雲)の欄には「同(永正9年)10月築相州甘縄城」とあるものの、いずれも推測の域を出ない。史料上の初見は大永4年(1524年)4月10日付の北条家制札となっており、この頃までに築かれていたのは確実と言える。
玉縄城は三浦半島の付け根、鎌倉街道を押さえる交通の要衝に立地し、南には柏尾川が流れ相模湾の水運と結ばれていた。
城域は侵食で急斜面が形成され谷戸が縦横に入り組む丘陵上に展開し、頂部の巨大な五角形の曲輪を本丸とし、そこから派生する尾根に曲輪が設けられた。本丸を囲む土塁は自然地形を利用したもので人の手はほとんど加わっておらず、その規模は大小様々になっている。
最も大きい土塁は諏訪壇と呼ばれ、その上部は削平地となっていて中世山城の本丸といっても差し支えない規模を持っている。諏訪壇の東は急斜面となり、本丸の北東は堀切、北は横堀を挟んで曲輪が設けられ、西は緩やかなため二重堀で防御された。

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永正9年(1512年)、北条早雲は相模三浦氏の[[岡崎城>相模岡崎城]]を落として三浦半島に追いやり、武蔵の扇谷上杉氏と三浦氏の連絡を断つために玉縄城を整備したとされる。同13年(1516年)には三浦義同救援に向かう扇谷上杉朝興を撃破し、[[三崎城]]の義同を自刃に追い込んだ。
玉縄城は早雲の子氏綱の代でも重要視され、北条五色備の赤備を率いる北条綱高が城代を務めた。
享禄2年(1529年)頃に早雲の次男である氏時が初代城主となった。玉縄城は最初に取り立てられた小田原城の支城であり、玉縄衆は相模三浦氏の旧臣を三浦衆として取り込み、三浦半島を抑える水軍を統括するとともに、鎌倉防衛の重責を担った。
天文11年(1542年)に綱成が三代目の玉縄城主となり、以後も氏繁、氏舜、氏勝と綱成の家系が玉縄城主となり、天正18年(1590年)の小田原征伐の際に開城するまで玉縄北条氏として続いた。
玉縄北条氏が率いる玉縄衆は後北条氏の重要な戦いで常に主力として参陣し、天文15年(1546年)の[[河越城>川越城]]の戦いや永禄7年(1564年)の第二次国府台合戦、永禄12年(1569年)の三増峠の戦いなどで奮戦した。
後北条氏の戦線が遠ざかるにつれて伊豆や相模の城の軍事的重要性は低下し、整理されていった。玉縄城もまた軍事的重要性が低下したが、相模東部・玉縄領支配の拠点としての機能を持つようになり、その役割を変化させながら存続した。
この頃には玉縄衆のために城下町を拡大させ、丘陵に入り込んでいる谷戸を屋敷地として城域に組み込むようになった。永禄2年(1559年)には城の増築が行われ、同6年(1563年)には支配地域の村々に塀の管理を分担させ、5年に一度補修することを定めている。
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小田原征伐の際には玉縄城主の北条氏勝は[[山中城]]へ援将として入ったが、山中城は豊臣方の猛攻によって落城、氏勝は城から逃されたのちに玉縄城まで退いて籠城したが、徳川軍に包囲されて降伏した。
小田原征伐後、関東には徳川家康が配置され、玉縄城も徳川領に組み込まれた。家康は重臣の本多正信を玉縄城に入れ、後に松平正綱が入り初代玉縄藩主となった。
元禄16年(1703年)に松平氏は[[大多喜藩>大多喜城]]へ転封されて玉縄藩は廃藩、玉縄城も廃城となった。寛政4年(1792年)には松平定信が江戸湾防御の拠点として玉縄城の再建を提案したが、定信が失脚したことで実現はしなかった。

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|所在地|神奈川県鎌倉市城廻|
|現存状態|曲輪、堀切、土塁など|
|城郭構造|平山城|
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