玉縄城 のバックアップ差分(No.1)

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*現実の城情報 [#information]
【歴史】
「石川忠総留書」には、扇谷・山内両上杉氏の抗争が勃発した長享の乱(1487~1505年)の際に、三浦義同が関東管領山内上杉顕定に付いたのに対し、北条早雲は扇谷上杉定正に付いて明応3年(1494年)に玉縄城を落としたとあり、玉縄城には山内上杉勢が在城していたことがわかる。
玉縄城の築城時期は明らかになっていないが、近隣の大庭城の築城時期が文明年間(1469~1486年)の初頭とされることから、玉縄城もその頃に築城されたと考えられる。
大庭城は藤沢宿町の確保と防衛を主目的として築城され、鎌倉の北側の出入り口、柏尾川の渡河点を守備する役割までは担えなかった。
この役割を担っていたのが玉縄城であり、鎌倉の重要性を考えれば大庭城の築城よりも先行して玉縄城が築かれた可能性が高い。
文明年間(1469~1486年)以前の15世紀半ばに、鎌倉の北側の出入り口を抑えるために関東管領山内上杉氏が築城したと思われる。
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玉縄城と大庭城は直線距離でわずか6.7キロメートルしか離れておらず、両上杉氏が共同で鎌倉公方足利成氏に対抗した享徳の乱(1455~1483年)の際に、山内上杉氏の玉縄城を扇谷上杉氏の大庭城が支援する体制だったと考えられる。
また両上杉氏が対立した際には両城は境目の城にもなった。
永正9年(1512年)以降に北条早雲は玉縄城を大規模に改修したが、城郭は改修期間中は防御力が著しく低下するものであり、早雲は改修途中の玉縄城を破られることも想定して大庭城に支援させた。
大庭城を改修する際には玉縄城に支援させ、両城は交互に支援しつつ改修拡張していったと考えられる。
永正13年(1516年)、早雲は三浦氏の新井城の攻囲から反転して玉縄城に入り、新井城に籠城する三浦義同の救援に向かう江戸城主扇谷上杉朝興を撃破し、新井城の義同・義意父子を自刃に追い込んだ。
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永正15年(1518年)に早雲は韮山城に隠居して嫡男の氏綱に家督を譲り、翌年に韮山城で死去した。
その後大永4年(1524年)までは多摩川以南の南武蔵は北条氏と扇谷上杉氏の勢力が衝突する紛争地域だったが、氏綱が江戸城を奪取すると北条氏領国の境界線は多摩川を越え、享禄2年(1529年)頃に早雲の次男である氏時が玉縄城の初代城主となった。
玉縄城は[[小田原城]]の北条氏が最初に取り立てた支城であり、鎌倉の防衛と三浦半島を抑える拠点だった。
玉縄城の支配領域は相模国東郡(高座・鎌倉・三浦郡)と武蔵国久良岐郡(横浜市南西部)であり、鎌倉には鎌倉代官の大道寺氏が配置され、一種の特別区のようになったいた。
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氏時は享禄4年(1531年)に没し、跡を継ぐ男子がいなかったため、氏綱の次男である為昌が玉縄城に入り二代目城主となった。
翌年から氏綱は以前に里見氏の鎌倉侵攻によって焼失した鶴岡八幡宮の再建事業に着手し、東国武家政権の継承者を目指した。
この事業は氏綱の子氏康にまで引き継がれ、天文13年(1544年)に完成したが、玉縄城はこの一大難事業実施の主務支城となり、氏綱はたびたび玉縄城に在城して鎌倉へ工事の督励に赴いている。
天文11年(1542年)に為昌は急死し、子がいなかったために氏綱の娘婿で地黄八幡として知られる綱成が為昌の養子となる形で跡を継ぎ、三代目の玉縄城主となった。
綱成は天文15年(1546年)の河越夜戦以降は河越城主も兼ねることになり、玉縄城には綱成の嫡男である氏繁も守りについた。
綱成・氏繁は永禄4年(1561年)の上杉謙信、永禄12年(1569年)の武田信玄による小田原侵攻の際、玉縄城で籠城戦を行い守り抜いている。
以後も氏繁の子氏舜、氏舜の子氏勝と、綱成の家系が玉縄城主となり、天正18年(1590年)に豊臣秀吉の小田原征伐の際に開城するまで玉縄北条氏として続いた。
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小田原征伐後、関東には徳川家康が配置され、玉縄城も徳川領に組み込まれた。
家康は重臣のの本多正信を玉縄城に入れ、後に松平正綱が入り初代玉縄藩主となった。
元禄16年(1703年)に松平氏は大多喜藩へ転封されて玉縄藩は廃藩、玉縄城も廃城となった。
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【城郭構造】
玉縄城は藤沢宿の中心部から北東約2.7キロメートル、境川支流の柏尾川沿いの相模原台地先端に築かれた。
鎌倉の鶴岡八幡宮からは北西約5キロメートルに位置し、北側から鎌倉に入る鎌倉街道の上道・中道・下道はいずれも玉縄城付近を通り、まさに鎌倉の北側を抑える要衝だった。
東西×南北約1.2キロメートルの広大な範囲内に台地先端部の複雑な丘陵・谷地形を利用して多数の曲輪が展開していた。
最高所は主郭東側の諏訪壇で標高約80メートル、主郭は標高約60メートルで、この主郭部付近一帯が北条早雲による永正9年(1512年)の大改修の形態をとどめていたと考えられている。
現在、城跡一帯は住宅開発と学校建設によって遺構がほとんど失われてしまっている。
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相模国には三浦氏が相模中央部の支配拠点とした岡崎城があるが、岡崎城は三浦高救・義同父子が城主だった永正2年(1505年)~永正9年(1512年)の間に主郭が拡張され周辺部に各曲輪が追加造成・配置された。
岡崎城の主郭は約100×70メートル、玉縄城の主郭が約150×75メートルで、大型の主郭の形態と周辺部の曲輪配置は双子のようによく似ている。
ここから、玉縄城の基本形態は岡崎城と同じ上杉・三浦氏系統の系譜に属すると考えられる。
また玉縄城と同じく北条氏が改修した小机城と比較すると、永正9年(1512年)に改修された小机城の主郭は玉縄城と共通しているものの、大規模な地形改変が行われた西曲輪は永禄12年(1569年)の武田信玄侵攻後の武蔵国諸城の大改修によるものとされ、その際に改修された小机城の方形で大型の曲輪は玉縄城には存在しない。
このことから玉縄城は16世紀前半には中心部の改修が終了した、北条氏の支城群では古いタイプの城郭といえる。
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【観光情報】
JR大船駅からバスに乗り、清泉女学院で降りるとすぐの所に城跡がある。また大船駅から徒歩30分ほどでも行ける。
玉縄城では平成18年(2006年)に玉縄城址まちづくり会議が結成され、玉縄城跡の復活が進められてきた。
その活動は平成24年(2012年)11月の玉縄城築城500年祭で結実し、当日は小雨が降っていたものの多くの登城者で賑わい、イベントも行われていた。
玉縄城跡は現在女子校となっているため普段は立ち入ることができないが、玉縄城築城500年祭の後にも平成25年(2013年)には玉縄城主墓前祭が始まり小田原北條五代祭りも行われ、平成26年(2014年)には玉縄城まつり、平成27年(2015年)には綱成の日のまつり、平成28年(2016年)にはシンポジウム「玉縄城七つの謎を解く」などが行われ、城内散策の機会も設けられている。
玉縄城を訪れたい殿はイベントの日を狙うといいだろう。

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|所在地|神奈川県鎌倉市城廻|
|現存状態|曲輪、堀切、土塁など|
|城郭構造|平山城、丘城|

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