玄蕃尾城 のバックアップの現在との差分(No.1)

現実の城情報 Edit


【城郭構造】

玄蕃尾城は滋賀県と福井県の県境に位置する余呉北方の山々のうち、最も北方に位置する中尾山(柳ヶ瀬山)に築かれた陣城。

主郭はほぼ方形で、土塁を巡らせ、北東隅には天守台に相当するような方形の櫓台が設けられている。ここには実際に櫓が構えられていたようで、礎石が残っている。

主郭の北・南・東の三方には虎口が設けられ、いずれも虎口の外側には土塁が巡らされた小曲輪が付属している。特に南北の小曲輪は方形に整えられた形状をしており、角馬出として構えられたたものであることもわかる。

さらに南側にはこの角馬出のさらに外側に長方形の曲輪が設けられており、重ね馬出となっている。

外側の内側の出入り口は東に、内側の馬出の出入り口は西に構えられており、直進できないように工夫されている。

玄蕃尾城は滋賀県と福井県の県境に位置する余呉北方の山々のうち、最も北方に位置する中尾山(柳ヶ瀬山)に築かれ、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いで、柴田勝家が本陣として用いた陣城。

周囲に土塁を巡らせ北東隅には天守台に相当する櫓台が設けられた方形の曲輪を主郭とし、その北・南・東には外側に土塁が巡らされた小曲輪が付属する虎口が設けられた。

このうち南北の小曲輪は角馬出となっており、南側のものは外側に長方形の曲輪が設けられた重ね馬出となっており、北側では馬出の外側に扇形の曲輪が配置されて兵糧や武器などを保管する兵站基地として機能したと考えられる。

戦国時代後半、織豊系城郭の特徴として曲輪を囲い込む横堀が発達し、横堀によって山城に防衛線が確立されるようになったが玄蕃尾城はその典型例となっており、その突出した規模・縄張から陣城の最高傑作と評される。


一方、北側では馬出の外側に扇形の曲輪が配置されている。面積的には主郭よりも大きいこの曲輪は、兵糧や武器などを保管する兵站基地として機能したと考えられる。このため曲輪面の造成は極めて雑で、平坦にはなっていない。

虎口は東側に構えられているが、ここだけは物資を入れやすくするために幅の広い土橋が架けられた平虎口が設けられた。

しかし主郭北方の角馬出からは横矢が効く絶妙の縄張となっている。


戦国時代後半、織豊時代の城郭の特徴として曲輪を囲い込む横堀が発達し、横堀によって山城に防衛戦が確立されるようになったが、その典型例がこの玄蕃尾城となっている。

主郭の周囲には曲輪内側の切岸が高く、曲輪外側の切岸が低くなっており、その高低差が顕著な幅約10メートル、深さ6メートルの横堀が巡らされている。

この横堀と連携した土塁の構造も見事で、全ての曲輪に高土塁が設けられその威容は圧巻。

このように玄蕃尾城は巧妙な縄張と突出した規模を誇り、陣城の最高傑作とも評されている。


【歴史】

天正10年の清州会議において、領国に新城の築城を禁止することが取り決められた。しかし翌年に羽柴秀吉は山城国で山崎・八幡に城を築き、柴田勝家はこれを誓約違反であるとして秀吉と激しく対立した。この秀吉の築城に対抗して築かれたのが玄蕃尾城とされる。
所在地滋賀県長浜市余呉町柳ヶ瀬・福井県敦賀市刀根
現存状態曲輪、空堀、土塁など
城郭構造山城

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